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葛城めぐり5 葛木御歳神社

葛木御歳神社の鳥居と参道奈良

葛木御歳神社

全国にある
御歳(みとし・三歳)神社
大歳(おおとし)神社
総本社といわれる

葛木御歳(かつらぎみとし)神社
です。

中鴨社

古代氏族・
カモ(鴨・賀茂・加茂)氏の
発祥の地ともいわれていて

高鴨(たかがも)神社
上鴨(かみがも)社といい

鴨都波(かもつば)神社
下鴨(しもがも)社といい

葛木御歳神社を
中鴨(なかがも)社といようです。

水稲栽培

縄文時代に
カモ氏族の祖先はまず
高鴨神社の地でさかえた
いわれています。

弥生時代になると
鴨都波神社の地に
うつり住んだ集団と

葛木御歳神社の地に
うつり住んだ集団があらわれ

それぞれの地で
水稲栽培をはじめた
といいます。

そうしたことから
御所(ごせ)市では

鴨社のあたりを
日本の水稲栽培発祥の地
としているようですね。

葛木御歳神社の鳥居と参道

御歳神

ご祭神は
御歳神(みとしのかみ)
だといいます。

五穀豊穣をつかさどる神
といわれるようですね。

「トシ(歳・稔)」とは
実りや稲を意味する古語
だといいます。

宮中祭祀の
祈年祭(きねんさい)でも
もっとも重要な神
とされているようです。

また、かつて
大和川が氾濫したさいには

源流のひとつである
葛城川(かつらぎがわ)
の河岸にある

葛木御歳神社に朝廷から
幣帛(へいはく)がささげられ
水難防止を祈ったようです。

そのため、
水の神の神徳もあるといいます。

葛木御歳神社の笹百合

御歳山

葛木御歳神社は
本殿の背後にある

御歳山(みとしやま)
ご神体山にしてるといいます。

山頂には
磐座(いわくら)があり

往古より
神をお迎えしていた
といいます。

御歳山を背後とするため
本殿は北向きだそうです。

神社の社殿といえば
南向きが一般的ですが

祭祀において
なんらかの理由がある場合は
その限りではないようです。

また、そうした神社は
古式ゆかしい神社である
ことがおおいようです。

北にひろがる奈良盆地を
見守っているのではないか
といわれるようですね。

葛城氏

けれども、
本殿は真北ではなく
北北西を向いているようで

参道の延長線上には
葛城一言主(かつらぎひとことぬし)神社
があるようです。

葛木御歳神社とおなじく
「かつらぎ」と冠しています。

葛木御歳神社は
カモ氏発祥の地だけではなく

葛城(かつらぎ)氏発祥の地
ともいうようです。

葛城氏も
有力な古代氏族のひとつであり
この地で栄えたといわれます。

葛木御歳神社の笹百合

名神大社

かつて、神社には
社格(しゃかく)という
格式がついていて

なかでも、
霊験が著しい神社は
名神大社(みょうじんたいしゃ)
といわれていたようです。

葛城では

・鴨都波神社
・葛木御歳神社
・葛木一言主神社
・葛城水分神社
・高天彦神社
・高鴨神社
・片岡神社
・火幡神社
・葛木火雷神社

があげられるといいます。

従一位

さらに、神社には
神階(しんかい)という
位階もあったといいます。

最上位は
正一位(しょういちい)
といって

・春日(かすが)大社
大神(おおみわ)神社
賀茂別雷(かもわけいかづち)神社
・賀茂御祖(かもみおや)神社
・松尾(まつお)大社
・日吉(ひよし)大社

などなど
十数社があったようです。

その次の階位は
従一位(じゅういちい)
というのですが

葛木御歳神社や
高鴨神社はこの
従一位だったといいます。

ほかには

・住吉(すみよし)大社
・気比(けひ)神宮
・諏訪(すわ)大社

などなど
名だたる神社がならびます。

げんざいの
葛木御歳神社の本殿は

春日大社の第一本殿を
江戸時代に移築したもの

だといいますが

これも、正一位から
従一位へとくだった
ということでしょうか?

ちなみに、
位階をつけることのできない
正一位のうえにある神社は

・伊勢(いせ)神宮
・日前(ひのくま)神宮
・国懸(くにかかす)神宮

だったようです。

葛木御歳神社の笹百合

おとしだま

相殿には
大歳神(おおとしかみ)
が祀られています。

古事記・日本書紀では
御歳神の父だそうです。

お正月のお祝いというのは
家族の繁栄をねがって
家庭に歳神さまを迎える祭
なのだそうです。

歳神さまへのお供え物で
歳神さまが宿るものを
歳玉(としだま)
といったようですが

これが、げんざいの
鏡餅(かがみもち)
だそうです。

縁起の良い「歳玉」を
年長者が一族のものに
わけて配るのが

「おとしだま」
だったといいます。

高照姫命

相殿には
高照姫命(たかてるひめ)
も祀られるようです。

高照姫命は
古事記・日本書紀では
よくわからないといいます。

ホツマツタヱによれば
アチスキタカヒコネの妹で
アメワカヒコ(天稚彦命)
と結ばれたかたです。

葛木御歳神社のご由緒

摂社末社

たくさんの社が
祀られていますが
なかでも気になるのは

味鋤高彦根命(あぢすきたかひこね)神社
天稚彦命(わかあまひこ)神社


でしょうか。

高照姫命ゆかりの
神さまですね。

ほかには

事代主命(ことしろぬし)神社
一言主命(ひとことぬし)神社


もあり
事代主命は鴨氏
一言主命は葛城氏の
ゆかりがあるのでしょう。

そして、
ホツマツタヱからみて
とても興味深いのが

稚日女命(わかひるめ)神社

でしょうか。

こちらは、
天照大神の姉・ワカヒメ
を祀る神社のようです。

トシノリカミ

ホツマツタヱには
ワカヒメと
タカテルヒメ・オクラヒメ
の関係が描かれています。

      のちにわかひめ
ひたるとき やくもゐすすき
かだかきお ゆつることのね
たかひめお たかてるとなし
わかうたの くもくしふみは
おくらひめ さつけてなおも
したてると なしてわかくに
たまつしま としのりかみと
たたゑます

ホツマツタヱ 9アヤ
ワカヒメ(稚日女命)
はなくなるさい

6弦琴の八雲(やくも)打ちや
5弦琴の五筋(ゐすき)打ちや
3弦琴の葛掻(かだがき)など

琴の奏法や技術を
タカテルヒメ(高照姫命)
にさずけました。

また、
歌の製法や技術をまとめた
クモクシフミは

オクラヒメ(大倉姫命)
にさずけて

シタテルヒメ(下照姫命)
という称え名をあたえました。

そうして
ワカヒメのおさめる国にある
タマツシマ(玉津島)で
さいごを過ごされると

トシノリカミ(歳徳神)
と称えられました
」

タマツシマとは
紀ノ川(きのかわ)を
くだったさきの

和歌浦(わかうら)にある
玉津島(たまつしま)神社
といわれています。

ワカヒメにあたえられた
トシノリカミという称え名が
葛木御歳神のことではないか?

といわれるようです。

つまり、
葛木御歳神社の祭神は
ワカヒメではないか?

というようです。

古語拾遺

807年にまとめられた
古語拾遺(こごしゅうい)という
全一巻の神道資料があるのですが

その巻末あたりには
御歳神の由来があるようです。

一昔在神代大地主神營田之日以牛宍食田人于時御歳神之子可至於其田唾饗而還以状告父御歳神發怒以蝗放其田苗葉忽枯損似篠竹於是大地主神令片巫(志止々鳥)肱巫(今俗竈輪及來占也)占求其由御歳神爲崇宜獻白猪白馬白鶏以解其怒依教奉謝御歳神答曰實吾意也宜以麻柄作桛々之乃以其葉掃之以天押草押之以烏扇阿不氣若如此不出去者宜以牛宍置溝口作男莖形以加之(是所以厭其心也)以薏子(古語以薏玉都須也)蜀淑呉桃葉及塩班置其畔仍從其教苗葉復茂年穀豊稔是今神祇官以白猪白馬白鶏祭御歳神之縁也

古語拾遺

要約しますと

「
大地主神は農民たちに
牛肉をたべることを
すすめたところ

御歳神は激怒して
イナゴをはなって
稲を枯らした。

そこで、大地主神は
白猪・白馬・白鶏をささげて
平謝りをすると

御歳神は
扇によってイナゴをはらい
田畑を肥やす方法を伝えたので
豊かに稔った。

これによって
祈年祭では御歳神に
白猪・白馬・白鶏
を捧げるようになった
」

といいます。

ホツマツタヱには、これに
とてもよく似たはなしがあります。

おほなむち ひとりめくりて
たみのかて けししゆるせは
こゑつのり みなはやかれす
ぞはほむし くしぎねはせて
これおとふ したてるひめの
をしえくさ ならいかえりて
をしくさに あふげはほをの
むしさりて やはりわかやぎ
みのるゆえ 

ホツマツタヱ 9アヤ
「
オホナムチ(大己貴命)[大国主命]は
ひとりで国をめぐって治めるなかで

民ひとびとの食料として
獣の肉を食べることを許しました。

すると、ひとびとは肥えふとり
みな早くになくなるようになりました。

しかしこれも、もとはといえば
穂を蝕むイナゴの害によって
食料不足していたからです。

そこで、
クシキネ(オホナムチ)は
馬を馳せて

シタテルヒメ(ワカヒメ)を
訪ねると

イナムシ祓いの方法を習い
出雲にかえって実践しました。

歌とともに奥義をあおげば
またたく間にイナゴは去り

田畑はよみがえりふたたび
たくさんの稔りをもたらしました
」

これに感謝した
オホナムチ(大己貴命)は
ワカヒメにお礼をしたようです。

      むすめたかこお
たてまつる あまくにたまの
おくらひめ これもささけて
つかえしむ したてるひめは
ふたあおめ めしてたのしむ
やくもうち

ホツマツタヱ 9アヤ
「
オホナムチの娘・
タカコ(高照姫命)を
ワカヒメに仕えさせました。

また、
アマクニタマ(天津国玉神)の娘・
オクラヒメ(大倉姫命)も捧げて
ワカヒメに仕えさせました。

ワカヒメことシタテルヒメは
この二人の侍女を召して

琴を奏でながら歌を詠う
八雲打ち(やくもうち)を
たのしみました。
」

つまり、
タカテルヒメ・オクラヒメ
のおふたりは

ワカヒメのもたらした
豊穣への感謝としてさしだされ

ともに暮らしていた時期があった
というようですね。

もしかしすると、この地で
ワカヒメ・タカテルヒメ・オクラヒメ
が琴や歌に興じていたのかもしれませんね。

葛木御歳神社は
ホツマツタヱからしても
重要な神社のようです。

葛城めぐり6 へ つづく


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