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葛城めぐり1 アチスキタカヒコネ

高鴨神社の神池奈良

アチスキタカヒコネ

『古事記』では
阿遅鉏高日子根神(あじすきたかひこね)

『日本書紀』では
味耜高彦根命(あじすきたかひね)

などとあらわされる
日本神話の神さまです。

ホツマツタヱ』では
アチスキタカヒコネ
とあらわされるようです。

古代の有力氏族・
カモ(鴨・加茂・賀茂)氏
と関わりの深いことから

鴨氏発祥の地ともいわれる
奈良の葛城(かつらぎ)
祀られているといいます。

高鴨神社の鳥居

葛城めぐりのまえに
アチスキタカヒコネについて
ホツマツタヱからみてゆきます。

このシーンは
出雲の『国譲り』にも
関わるようです。

大国主命の子

まず、血筋ですが

天照大神の弟である
ソサノヲの孫にあたります。

そして、

ソサノヲの子・
オホナムチ(大己貴命)[大国主命]

天照大神の娘・
タケコ(田心姫命・奥津島姫命)

との間にうまれた
第3子のようです。

国譲り神話

出雲には
国譲り(くにゆずり)神話
がのこるといいます。

ソサノヲの後継者である
オホナムチの治政によって

出雲の国は豊かに
繁栄していたようです。

けれども、朝廷から
反乱の疑いをかけられてしまい
武力をもって迫られたので

オホナムチは
出雲国の長官をしりぞいて
国をあけわたしたという話です。

ホツマツタヱでは
カシマダチといわれ

禍(カ・反乱のきざしがある)
洲(シマ・出雲の国を)
断(タチ・ただした)
というような意味だそうです。

朝廷の使者

とはいえ、朝廷もすぐさま
武力で迫ったわけではなく

3度にわたって
出雲に使者をおくり

出雲の内情を
調査していたようです。

1人目は
天照大神の御子・
ホヒ(天穂日命)

2人目は
ホヒの御子である
オオセイイミクマノ(大背飯三熊之大人)

3人目は
岐阜のあたりを治める一族の
アメワカヒコ(天若日子命・天稚彦命)
だったといいます。

しかしながら、
なぜか3人はみんな
出雲に住みついてしまい
朝廷に帰らなかったそうです。

タカテルヒメ

3人目の使者である
アメワカヒコ(天若日子命)

出雲のオホナムチの娘・
タカテルヒメ(高照姫命)
と結ばれていたといいます。

そうして、ふたりは
8年ものあいだ
睦まじく暮らしたようですね。

返し矢

使者・アメワカヒコは
派遣されるさい

朝廷から
カゴ弓とハハ矢という
弓矢を賜っていたといいます。

これは、いよいよ
武力闘争も辞さない
という意味もあったようです。

しかし、アメワカヒコは
弓矢を使うこともなく
出雲に居ついてしまいました。

そこで、朝廷は
キギス(雉子)という

隠密・密偵のようなものを
さし向けたといいます。

すると、
アメワカヒコはこの
キギスをハハ矢で射った
のだそうです。

傷をおったキギスは
帰ってことを伝えると

政治をあずかっていた
タカギ(高木神)

キギスの血がついたハハ矢を使い
アメワカヒコを射るよう命じたようです。

天に向かって唾をはけば
その唾は自分に返ってくる
とでもいうかのように

ふたたび隠密が
アメワカヒコにむけて
血のついた矢を射ったところ

矢はみごとに
アメワカヒコの胸を
射ぬいたといいます。

こうして、3人目の使者・
アメワカヒコはなくなったようです。

これによって
返し矢はかならず当たる
などといわれるようになり

「返し矢おそるべし」という
ことわざが生まれたといいます。

タカテルヒメは
夫の早世をかなしんで
おおいに泣いたようです。

仮殯

アメワカヒコのからだは
朝廷のある琵琶湖東岸の
多賀(たが)の地にひきとられると

喪屋(もや)をたてて
仮殯(かりもがり)
がおこなわれたといいます。

埋葬前におこなわれる
葬送の儀式や祭のようなもので

納棺したまま時間をおいて
故人との別れを惜しんだり
するそうです。

故人の妻・
タカテルヒメの兄にあたる
アチスキタカヒコネは

アメワカヒコとも
懇意にしていたらしく

アチスキタカヒコネは
はるばる出雲から多賀へ
弔問にかけつけたといいます。

瓜ふたつ

ところが、
アチスキタカヒコネの姿をみた
アメワカヒコの遺族たちは

「アメワカヒコが生きている!」
「8年ぶりの再会だ!」


と沸きたって
アチスキタカヒコネに
むらがったようです。

どうやら、
アチスキタカヒコネと
アメワカヒコは
顔形がそっくりだったらしく

ふたつにわけた瓜の
見分けがつかないくらい
似ていたといいます。

これに、
アチスキタカヒコネは
激怒しました。

      ともなれはこそ
おちにとふ われおなきみに
あやまつは あらけがらしや
はらたちと

ホツマツタヱ 10アヤ
「
友だからこそ
遠方まで訪ねてきたのだ。

そんなわたしを
故人と見間違えて

死のケガレ(穢れ・気枯れ)を
負わせるというのは

なんと腹立たしいことだ
」

そういうと、
アチスキタカヒコネは

アオハカリという
剣(斧?)をもって

アメワカヒコの眠る
喪屋を斬りふせたといいます。

友をおもう気持ちは
(顔が似ていることもあって)
だれよりも強かったでしょう。

そして、
朝廷の手によってなくなったという
悔しさもあったのでしょう。

自分たちで手を下しておきながら
生き返ったと喜ぶなどと

都合の良いことをいうなという
腹立たしさもわかる気がします。

とはいうものの、
朝廷がおこなう仮殯の場で

出雲の男が騒ぎをおこす
というのはいよいよ

出雲を攻める口実にも
なりかねません。

オクラヒメ

この騒ぎをしずめたのが
アメワカヒコの妹である
シタテルオクラヒメ(下照大倉姫命)
でした。

オクラヒメはこんな
歌を詠って諭したといいます。

あめなるや おとたなばたの
うながせる たまのみすまる
みすまるの あなたまはやみ
たにふたわ たらずあちすき
たかひこねぞや

ホツマツタヱ 10アヤ

この歌には、いくつもの
意味や思いが込められた
非常に巧みなものだったようです。

詳しい歌の解説は
いずれおこないますが
ざっくり訳すならば


あなたの行いは
名に恥じないものですか?

と問うものだったようです。

これにハッとした
アチスキタカヒコネは

怒りをゆるめて
太刀をおさめると

オクラヒメを称えて
こんな歌を返したといいます。

あまさがる ひなづめのいは
たたせとひ しかはかたふち
かたふちに あみはりわたし
めろよしに よしよりこねい
しかはかたふち

ホツマツタヱ 10アヤ

この返歌にも、いくつもの
意味が込められているのですが
ざっくりと訳すならば

「
あなたに感服いたしました。

どうかわたしと
夫婦になってください
」

という
愛を告白するものだったようです。

シタテルオクラヒメは
和歌の始祖である
ワカヒメから歌を教わったらしく

のちに、才能を認められて
歌の奥義を伝授されるほど
だったようです。

ですから、歌によって
ひとの心をほだしてしまう
ほどの力をもっていたようですね。

鴨氏

このうたは のちのゑにしの
あふうすの かもゐとむすぶ
ひなぶりはこれ

ホツマツタヱ 10アヤ

この歌が
きっかけとなって

アチスキタカヒコネと
シタテルオクラヒメは
結ばれたといいます。

歌によって
男女の縁が結ばれたことから

夫婦になりたいと願うものは
歌を交わすようになったようです。

いわゆる、
相聞歌(そうもんか)
生まれた話でもあるようです。

また、どうやら
「男女の綾(あや)」や
「交錯する糸」をあらわす

『かもゐと』という言葉が
「カモ(鴨・賀茂・加茂)氏」
につながったようですね。

アチスキタカヒコネは、いまでは
迦毛大御神(かものおおみかみ)
として祀られるようです。

葛城

アチスキタカヒコネや
シタテルオクラヒメが
おおく祀られるのが

奈良盆地の南にある
葛城(かつらぎ)の地です。

高鴨神社の神池

ですから、もしかすると
ここはおふたりが暮らした地
なのかもしれませんね。

大倉姫命(おくらひめ)
を祀る神社はおそらく
このあたりだけではないでしょうか?

系図

アメワカヒコ
タカテルヒメ

アチスキタカヒコネ
シタテルヒメ


このかたがはともに
夫婦であり
兄妹でもあるので


まさに、
織り物の綾のように
血縁がかたく結ばれた
ということのようです。

アチスキタカヒコネの相関図

ステシノ・フタアレ

アチスキタカヒコネは
ほかに別名として

ステシノ(捨篠)
フタアレ(二荒)

という名もあるようです。

ステシノはもしかすると
諱(いみな・本名)でしょうか?

フタアレとは
乗馬に長けていたことからの
称え名だといいます。

いまでは、日光東照宮もある
二荒山(ふたらさん)
でも祀られているようです。

葛城坐火雷神社の境内

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