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葛城めぐり9 葛城一言主神社

奈良

葛城一言主神社

奈良県御所(ごせ)市の
森脇(もりわき)には

全国にある
一言主神を祀る社の
総本社といわれる

葛城一言主(かつらぎひとことぬし)神社
があります。

葛城之一言主大神

ご祭神は
葛城之一言主大神
(かつらぎのひとことぬしのおおかみ)
だといいます。

第21代・
雄略(ゆうりゃく)天皇

大和葛城山(やまとかつらぎさん)
にやってきたとき
あらわれた神といわれます。

いちごんさん

古事記では、

雄略天皇の一行と
そっくりな姿形であらわれ

やまびこのように
おなじ言葉を返してきた
といいます。

怒った雄略天皇が
名を名乗れと声をあらげると

このように
返してきたそうです。

吾者、雖惡事而一言、雖善事而一言、言離之神、葛城之一言主大神者也

古事記 下卷
「
われは
悪事(まがごと)も一言
良事(よごと)も一言

言離(ことさか)の神
葛城の一言主の大神である
」

これを聞いた
雄略天皇はおそれいって

身に着けていた弓矢や太刀や
伴のものたちの衣服をぬがせて
奉ったといいます。

「すべてを一言で言い放つ[言離]」
というところから

「一言の願いなら叶えてくれる」
という神徳がひろまり

地元では
「いちごんさん(一言さん)」
として親しまれているようです。

葛城氏

ところが、日本書紀では
雄略天皇と一言主神の関係が
すこし変わってきます。

僕是一事主神也

日本書紀巻第十四 大泊瀬幼武天皇 雄略天皇
「
やつかれは
一事主神(ひとことぬしのかみ)である
」

「僕(やつかれ)」という
へりくだった一人称をつかっています。

ふたりは、日暮れまで
ともに鹿狩りを楽しむと

一事主神は雄略天皇を
来目水(くめのかわ)まで
つきしたがって[侍り]
見送ったようです。

雄略天皇との関係は
対等というよりも

雄略天皇にしたがっている
ようにもみえます。

葛城一言主は、この地の
葛城(かつらぎ)氏の祖神
として祀られているらしく

日本書記の記述は
葛城氏が雄略天皇によって
没落したことをあらわす

ともいうようです。

第16代・
仁徳(にんとく)天皇の后・
磐之媛命(いわのひめ)
葛城氏のものであり

5人の御子のうち
4人が天皇となったそうです。

これによって、葛城氏は
繁栄を極めていたようですね。

葛城襲津彦

仁徳天皇の皇后・
磐之媛命の父を

葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)
といいまして

葛城氏の祖
ともいわれるようです。

長柄(ながえ)神社の地で
産まれたともいうようですね。

かつらぎの そつひこまゆみ あらきにも たのめやきみが わがなのりけむ 万葉集第11巻

雄略天皇は、
仁徳天皇の孫にあたり
葛城氏の血も色濃く
ながれていたのですが

政治的な対立によって
葛城氏を没落にまで
追いこんだようですね。

ただし、雄略天皇は
政敵であった葛城氏の娘を
妃としてむかえて


世継ぎとなる、第22代・
清寧(せいねい)天皇も
産んでいます。

このあたりに、
神社として残された理由
があるのかもしれません。

幼武尊

葛城一言主神と雄略天皇が
出会った地に築かれたのが
葛城一言主神社だといいます。

日本書記では
雄略天皇はみずからを
幼武尊(わかたける)
と名乗っています。

ですから、
葛城一言主神社では
葛城之一言主大神とともに

幼武尊(雄略天皇)が
祀られているようです。

役行者

飛鳥時代に活躍した
修験道(しゅげんどう)の開祖・
役行者(えんのぎょうじゃ)
には、

一言主神を使役した
という伝説もあるようです。

一言主神は、葛城山から
金峰山(きんぷせん)まで
橋をかけるよういわれたのですが

役行者の怒りにふれて
この地に呪縛された
ともいうようですね。

役行者は、のちに
伊豆にながされたといいますが

これは、不満をもった
一言主神が役行者をおとしいれたから
ともいわれるようです。

ただ、このはなしは
平安時代ごろにつくられた
ものであるらしく

これもまた
葛城氏の没落をあらわす
ともいうようですね。

土佐神社

続日本紀(しょくにほんき)では

雄略天皇と狩りをしたのは
高鴨(たかかも)神とあるらしく

これによって、一時期
高鴨神は土佐に流されていた
ともいうようです。

これを、土佐の
高賀茂(たかがも)大社の
縁起とするらしく

現在、高知県では
土佐国一宮・
土佐(とさ)神社
が祀られているようです。

祭神は、
味鋤高彦根神(あじすきたかひこね)[高鴨神]
一言主神(ひとことぬしのかみ)

のようですね。

このことから、
アチスキタカヒコネと
葛城一言主神は
同じ神ではないか?

ともいわれるようです。

ソサノヲの子

一言主神は
雄略天皇のまえに
突然あらわれた神として
描かれているために

葛城氏の祖神や
葛城氏が祀っていた神
といわれるようです。

けれども、
『先代旧事本紀』には
素戔嗚尊(すさのお)の子のなかに

次葛木一言主神 坐倭國玉上郡

先代旧事本紀 地祇本紀


とありまして
一言主神は素戔烏尊の子
とされているようです。

これは、
ホツマツタヱでもおなじように
かかれています。

ただし、ホツマツタヱでは
神代からすでに活躍があったようです。

カツラギヒトコトヌシ

ホツマツタヱでは
カツラギヒトコトヌシ
として登場します。

ソサノヲ(素戔嗚尊)と
イナタヒメ(奇稲田姫命)の
あいだにうまれた子で

8人兄弟のうち6番目で
四男だったようです。

カツテ

ヒトコトヌシはやがて
ヤスタマ姫と結ばれると

カツテ(勝手神)
を産んだといいます。

カツテは、伊勢で
天照大神にも仕えたらしく

ホツマツタヱでは
すばらしい活躍をします。

また、伊勢で
天照大神がおおくの臣をあつめ
講話の会をひらいたときには

はじまりの合図(儀式)であり
清め祓いの音でもある

「カカン」「ノン」「テン」
のうち

「デン」の音を
ヒトコトヌシとカツテの親子が
担っていたようです。

金峰山寺

役行者が、一言主に
橋をかけるようにいった
金峰山とは

吉野山にある
金峰山寺(きんぷせんじ)
のことのようですが

そこには、カツテを祀る
勝手神社もあるといいます。

橋をかけるというのは
親子の系譜をとりもどす
という意味もあったのでしょうか?

葛城国造

さらに、カツテの孫を
ツルギネ(剣根命)
といいまして

初代・
葛城国造(かつらぎのくにのみやつこ)
となって

葛城の地を治めたかた
だといいます。

「葛城」の地名や
「葛城氏」という姓も

祖先である
カツラギヒトコトヌシの
「かつらぎ」からとった
のでしょうか。

土蜘蛛

日本書記には
「葛城」の語源として

初代・
神武(じんむ)天皇

反乱勢力の
土蜘蛛(つちぐも)を
討ったさい

葛でつくった綱をつかった
ことから、この地を
「葛城」と名づけたようです。

その土蜘蛛の墓とされる
蜘蛛塚(くもづか)

参道の駐車場の
目のまえにあります。

葛の縄というと
ホツマツタヱでも
重要アイテムであり

反乱勢力の
ハタレを討つさいに
使われていますから

これもまた
とても気になります。

一事主

御子の名を
「カツ」テ
というからには

親の名は
「カツ」ラキ
だったのではないでしょうか?

そして、ホツマツタヱでは
オオモノヌシ(大物主)
コトシロヌシ(事代主)
は役職名ですから

ヒトコトヌシも役職名だった
のではないでしょうか?

このあたりについては
なにも書かれていないため
想像するしかありませんが

古事記・日本書紀に
言離神(ことさかのかみ)
一事主神(ひとことぬしのかみ)
とあるように

事解(ことさか)
に由来するのだとしたら

熊野で祀られている
事解男神(ことさかのお)
との関係も気になることろです。

「事解」は
「離縁」という意味が
残っているようですし

「事境(ことさか)」とすれば
事物の境界をはかる言葉
なのかもしれません。

それらを、
良い悪いと分別するのであれば

ヒトコトヌシとは
出雲における裁判官的な役割
だったのかもしれませんね。

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