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葛城めぐり12 棚機神社

棚機神社の石の祠とご神木奈良

棚機神社

葛木坐火雷神社から
3キロほど北東へゆくと

棚機(たなばた)神社
があります。

棚機の森に
ひっそりとたたずむ神社で
拝殿や本殿もなく

「タナバタサンさん」といわれる
ちいさな石の祠が祀られています。

棚機神社の看板

葛木倭文坐天羽雷命神社

かつて、ここには
葛木倭文坐天羽雷命神社
(かつらきしずりにいますあめのはいかづちのみことじんじゃ)
が祀られていたといいます。

現在では、さらに
4キロほど北に遷座して

二上山(ふたかみやま)の
ふもとで祀られているようです。

ですから、ここは
旧座地・元宮のようですね。

棚機神社のご由緒

天棚機姫神

棚機神社の祭神は
天棚機姫神(あめのたなばたひめ)
だといいます。

織物の神さまと
いわれるようですね。

ですが、これもかつては
葛木倭文坐天羽雷命神社の
祭神だったとすると

天羽槌雄神(あめのはづちのお)
が祀られていたようです。

またの名を
天羽雷命(あめのはづち)
建葉槌命(たけはづち)
ともいうようですね。

このかたは、
天照大神が岩戸に隠れたとき
文布(あや)を織った神
とされるようですね。

そこから、
機織りの祖神として
祀られるようです。

倭文氏

文布は、
「倭文布」や「倭文」
とも書かれるらしく

「しどり」や「しずり」
とも読むのだそうです。

ですから、
天羽槌雄神[天羽雷命]
倭文神(しとりのかみ・しずのかみ)
ともいわれるようです。

この神の末裔を
倭文(しとり・しどり・しずり)氏
といいまして

機織りや裁縫に
従事したといいます。

葛木倭文坐天羽雷命神社
全国の倭文神社の根本の社
とされるようですね。

タナバタ発祥の地

そんな、倭文神社の
はじまりの地ともいえるのが
棚機(たなばた)神社のようです。

棚機神社の鳥居

ここは、日本の
「たなばた」発祥の地
ともされるようですね。

そもそも、
『たなばた』という言葉は

アチスキタカヒコネ
オクラヒメがかわした
ひなぶりの歌によるようです。

あめなるや おとたなばた
うながせる たまのみすまる
みすまるの あなたまはやみ
たにふたわ たらずあちすき
たかひこねぞや

ホツマツタヱ 10アヤ

この歌にある
『おとたなばた』が
『たなばた』の語源
なのだそうです。

棚機津女伝説

『おとたなばた』とは
機を織る神聖な女性のこと
だといいます。

かつて、機織りとは
重要な意味をふくんでおり
神聖な儀式でもあったようです。

日本には、もともと
棚機津女(たなばたつめ)伝説
があったといいます。

旧暦7月15日には
水の神が降りてくるといわれ

水場のほとりに
「棚造りの小屋」を建てて

けがれなき乙女が
一晩そこにこもり

神聖な織物(神が着る服)を
織って捧げていたといいます。

また、一説には

天から降りて来る神の
一夜妻になって
神の子を身ごもるとか

お盆の前に
祖霊や客神(まろうど)を
迎えるためにこもる

のだといいます。

一種の巫女的な存在だった
のでしょうか?

童話『鶴の恩返し』も
女性が機織り部屋にこもりますが

あれも
機織りという神聖な儀式を

男が覗いたことで
穢してしまったという話
であるとしたら

『機織津女伝説』の
ひとつかもしれません。

棚機神社の石の祠とご神木

御衣裳

ホツマツタヱでは

君(主)につかえる妃が
君の着物を織っていたようです。

機織りというものは
治世にもたとえられていたようで

朝廷や法律による統治を
経糸(たていと)

暮らしを築いてゆく人々を
緯糸(よこいと)

として、これらが
うまく機能することで

美しい衣(は・ころも)が
織られるように

天下に治世がひろがってゆく
とされていたようです。

ですから、
君主は衣をきることで

統治者として
国と一体になるという
意味もあるようで

そこには、
天下の異変(糸のほつれ)を
すばやく察知するという
願いもあるようです。

ですから、衣服のことは
「ミハモ(御衣裳)」といい
重要視されていたといいます。

七夕

中国にはかつて
機織り技術の向上を願う

「七夕(しちせき)」
という儀式があったといいます。

これが、
渡来系の機織り集団とともに
日本にはいってきたとき

日本の
「たなばた」と結びついて

七夕(たなばた)
というようになったようです。

また、この集団は
女神を信仰していたらしく

それが、日本の
天棚機姫神(あめのたなばたひめ)
下照姫命(したてるひめ)
と結びついたようで

棚機神社では、いまも
女神をあわせ祀るようですね。

機織りによって
編みなされてゆく織物から

夜空にひろがる
天の川(あまのがわ)も
連想されたといいます。

棚織神社の案内板には
こんな話が載っていました。

棚機神社の棚機物語その1

大陸からやってきた美しい娘が
この村の青年と結ばれて
機織の技術を伝えたそうです。

しかし、
娘が器量があまりに良いため

帝の妃として
都へ召し上げらること
なったといいます。

そこで、娘は

「空に輝く星座を織物にして
献上いたしますので
どうかお許しください」

と願いでたそうです。

棚機神社の棚機物語その3

それから、
娘は七日七晩をとおして
星空の衣を織りあげると

そのまま、
息をひきとったといいます。

ある夜、
家族の夢に娘があらわれて


毎年7月7日の夜に
棚機の森に会いにゆきます


と告げたそうです。

村人たちは、
娘の恩にむくいるため

機織りの上達を願って
祭をおこなうようになった
のだといいます。

織姫(おりひめ・織女)と
彦星(ひこぼし・牽牛)の
物語にも似た伝説が
この地には残っているようですね。

乞巧奠

ご由緒によれば
渡来のかたがたによって

乞巧奠(きこうでん・きっこうてん)
という祭りが
日本に伝わったといいます。

7月7日の夜に
手芸上達を願って

織女たちが
7本の針の穴に
美しい糸を通すらしく

庭には捧げものが
ならべられたようです。

おそらく、これも
星への供物なのでしょう。

天津甕星

日本書記には
星の神様として

天津甕星(あまつみかぼし)
が登場するようです。

国譲り神話では
最期まで抵抗をつづけた神
のようですね。

天有惡神
名曰天津甕星
亦名天香香背男

日本書紀 巻第二 神代下
「
天に悪い神がいます。
名を天津甕星といいます。
またの名を
天香香背男(あめのかがせお)
といいます
」

また、ほかに
このような一文もあります。

其所不服者
唯星神香香背男耳
故加遣倭文神建葉槌命者則服

日本書紀 巻第二 神代下
「
服従しないものは
星の神・香香背男(かがせお)
のみとなった。

そこで、
倭文神・建葉槌命(たけはづち)
をつかわせて服従させた
」

倭文(しとり)神の
建葉槌命(たけはづち)とは

葛木倭文坐天羽雷命神社や
棚機神社の祭神である

天羽雷神(あめのはいかづち)
のことです。

どうやら、
星の神を機織りの神で
うち負かしたようですね。


ですから、一説には
織物のなかに星を織り込んで

星の神を織物に封印した
ともいうそうです。

こうなると、棚機神社の
棚機物語とも似ていますね。

星と織物の関係は
日本書記という
[日本最古の史書]にも
残っているようです。

棚機神社の碑・頭天大神

天御梶日女

余談ですが

出雲国風土記には
天甕津日女(あめのみかつひめ)
というかたが登場するそうです。

名だけみれば
天津甕星(あまつみかぼし)
にも似ています。

また、出雲国風土記では
アチスキタカヒコネの妻に
天御梶日女(あめのみかじひめ)
という方がいるそうですが

天甕津日女と天御梶日女
は同じ神であるという説も
あるのだそうです。

だとすれば、これもまた

アチスキタカヒコネたち
出雲のかたがたを
星の神

オクラヒメたち
朝廷のかたがたを
機織りの神

とみることもできそうです。

政治的立場では
相対していた

アチスキタカヒコネと
オクラヒメは

ひなぶりの歌によって
かもゐと(縁)を結んで

ともに暮らされた
ようですが

このおふたりもまた
織姫と彦星のもとになった
のかもしれませんね。

葛城めぐり ~終~


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