神呪寺
兵庫県西宮市にある
神呪寺(かんのうじ)
へ行ってきました。
こちらは
甲山(かぶとやま)
の麓にあります。
神の寺
甲山は
廣田(ひろた)神社の
神体山であり
神山(こうのやま・かんのやま)
と呼ばれていたのが
甲(こう)の字があてられて
甲山(かぶとやま)
となったようですね。
そんな、
神の山にある寺
という意味で
神の寺(かんのじ)
と呼んでいたのが
神呪寺(かんのうじ)
となったようです。
また、
「神呪」は本来
「しんじゅ」と読むらしく
「神秘なる呪語」
「真言(仏様のお言葉)」
のことだそうです。
「神呪寺」と書くと
字面はものものしいですが
神を敬う寺のようですね。
ほかには、
感應寺(かんのうじ・感応寺)
という字もあてるようです。
山号
真言宗(しんごんしゅう)
御室派(おむろは)の寺院で
寺格は
別格本山(べっかくほんざん)
とされているようです。
真言宗のなかでも
特別扱いのような寺院
のようですね。
山号は
甲山だといいますが
これは
先代住職[住持]が
つけたものらしく
それまでは
武庫山(むこさん)
だったようです。
これも、もとは
六甲山(ろっこうさん)が
六甲山(むこやま・向山・武庫山)と
呼ばれていたことによるといいます。
六甲山ともゆかりの深いお寺
ということでしょう。
真言宗の開祖である
弘法大師・空海(くうかい)
に縁の深いお寺であることから
甲山大師(かぶとやまだいし)
ともいわれるようです。
如意尼
神呪寺の開基は
如意尼(にょいに)
だといいます。
本名を
海部厳子(あまべのいつこ)
といい
元伊勢(もといせ)・
籠(この)神社の
宮司の家系だといいます。
海部氏とは
丹波国造の一族といわれ
海人族の首長だった
といわれるようですね。
海部厳子は、第53代・
淳和(じゅんな)天皇の
第4皇妃として迎えられ
故郷である
籠神社の奥宮にあたる
真名井(まない)神社
にちなんで
真名井御前(まないごぜん)
といわれたようですね。
とはいえ、宮仕えは
4年程度だったといいます。
そこには、美しい
真名井御前(海部厳子)に対する
側室たち嫉妬もあったといいますが
かねてより
仏道の世界に焦がれていた
ということもあって
出家されたようですね。
六角堂
海部厳子(如意尼)は
10歳のとき
京都・
頂法寺(ちょうほうじ)
六角堂(ろっかくどう)の
如意輪観音像
(にょいりんかんのんぞう)
に出会ったといいます。
この像は、淡路島の
岩屋浦に流れ着いたものを
聖徳太子(しょうとくたいし)
が祀ったものといわれ
聖徳太子を前世より
支えていた像なのだそうです。
わずか
10センチほどの像に
海部厳子は感銘をうけて
以後は
如意輪観音に
帰依したといいます。
六角堂で修業をしていた
海部厳子(如意尼)は
ここで
空海と出会ったそうです。
まだ、10代だった
海部厳子(如意尼)と
高野山の開山に励む
40代の空海が
どのような話をされたのかは
想像するしかありませんが
ある伝承によると
海部厳子は
籠神社に伝わる宝珠
「潮満の玉」を
空海に預けたといいます。
それは山幸彦が
海神から授かったという
神宝の玉だったようです。
京丹後には
山幸彦神話とも縁のある
浦島伝説もあり
海部厳子は浦島太郎の子孫
という話しもあるそうです。
さらに、京丹後にある
浦島(うらしま)神社を
創建したのは
海部厳子の夫・
淳和天皇だったといいますから
ここにもなにかありそうですね。
それはさておき
淳和天皇もまた
皇太子ときに
夢のお告げにしたがって
六角堂まできたところ
海部厳子を見初めた
というようです。
廣田明神
828年、海部厳子は
26歳で宮中をでると
六角堂に戻ったのちに
西宮の
浜南宮(はまなんぐう)
に遷ったといいます。
そして、そこから
廣田(ひろた)神社
へ遷ってから
甲山(かぶとやま)
へ入ったのだそうです。
このとき
廣田明神という
女神のお告げがあり
海部厳子は甲山に
お堂を建てることを
決意したといいます。
そして、かつての
夫・淳和天皇はこれに
協力したようですね。
神呪寺は
淳和天皇の勅願寺
といわれていまして
宮中から出たとはいえ
海部厳子への思いは
変わらなかったのでしょうか?
さらに、海部厳子は
かねてより親しくしていた
空海の協力をえると
3年間、甲山で
ともに修業をしたといいます。
そして、如意輪の秘法を修し
阿闍梨潅頂(あじゃりかんじょう)
を授かったといいます。
830年、空海は
甲山の山頂にあった
桜の木を彫りあげて
海部厳子をモデルとした
如意輪観音像を作ったそうです。
これが、
神呪寺の本尊である
如意輪観音像のようですね。
この観音像は
国の重要文化財とされ
毎年5月18日に
開帳されているようです。
日本三如意輪観音のひとつ
といわれていて
商売繁盛など
金銭的なご利益もあることから
融通(ゆうづう)さん
融通観音ともいわれるようです。
831年
空海との修行を終えて
本堂が完成すると
空海より
剃髪を受けて僧名を
如意尼(にょいに)
としたそうです。
遷化
853年3月20日(旧暦)
如意尼は33歳の若さで
なくなったといいます。
なくなるときには
高野山(空海)のほうを向いて
如意輪真言を唱えていたそうです。
すると、翌日
853年3月21日(旧暦)
空海も62歳で
入定されたといいます。
この劇的な関係から
ふたりのラブロマンスなども
ささやかれるようですが
ぼくとしては
ふたりを繋いでいたのは
ホツマツタヱにのこる
女神では?と思っています。
セオリツヒメ
六甲山と女神さま
でも書きましたが
聖徳太子が祀った
六角堂の如意輪観音も
廣田神社のご祭神
向津媛命(むかつひめ)も
甲山にあらわれた
廣田明神もみな
瀬織津姫(せおりつひめ)
だといいます。
また、甲山の向かいの
目神山では
神呪寺が創建される
100年ほど前に
役行者(えんのぎょうじゃ)が
瀬織津姫を感得したといいます。
ホツマツタヱによれば
ここは、瀬織津姫さまが
晩年を過ごされた土地だそうです。
そうすると、空海との
繋がりもみえてきます。
空海は
丹生都比売(にうつひめ)神社で
天照大神の姉・
ワカヒメを感得して
高野山に
真言宗を開きました。
瀬織津姫とワカヒメは
義理の姉妹であり
天照大神の遺言によって
西宮の地でともに
女の道(ニココロ)を守るよう
伝えられたといいます。
ワカヒメが眠るのは
西宮にある
越木岩(こしきいわ)神社
の磐座といわれていますし
瀬織津姫が眠るのは磐座は
六甲山にある
六甲比命(ろっこうひめ)神社
の磐座といわれています。
ですからふたりは
ホツマツタヱの女神を通じて
繋がっていたといえそうです。
若くして
如意輪観音(瀬織津姫)を
感得していた如意尼は
空海にとっても
かけがえのない存在
だったのでしょう。
そんなふたりが
惹かれ合ったのは
恋心というよりは
もっと深い導きによるもの
だったのでは?
と思いたいところです。
神呪寺を
「感応寺」と書くのも
海部厳子(如意尼)が
瀬織津姫に感応したから
かもしれません。
甲山
では、神呪寺から
甲山に登ってゆきます。
300メートルほどの
低山ですが、すでに
神呪寺も標高
200メートル程度なので
登るのには
それほど時間もかかりません。
登山口のあたりには
神呪寺の鎮守社として
興味深いかたがたが
祀られているようです。
こちらは、
甲山稲荷大明神を
中央にして
白瀧大明神と
白菊大明神が
祀られています。
天照大神と
瀬織津姫・ワカヒメが
ならんでいるのでしょうか?
ココリヒメ(菊理媛)とも
とれそうですね。
こちらは、
白髭大明神と
善女龍王ですね。
このかたがたについても
いずれじっくりとお話します。
では、
甲山へ登ってゆきます!
所在地
〒662-0001
兵庫県西宮市甲山町25−1
コメント