西宮神社
兵庫県西宮市の
社家町(しゃけちょう)には
西宮(にしのみや)神社
があります。
全国に
約3,500社あるという
えびす神社の総本社
だといいます。
年初の
十日えびす後におこなわれる
福男(ふくおとこ)選びでは
表大門から本殿までの
230メートルを走り参りする
参拝者の勇姿がみられます。
南宮神社
福男の
スタート地点である
表大門からではなく
南門から
はいってゆきます。
松林にゆきあたると
左手がわに
南宮(なんぐう)神社
があります。
こちらは、西宮神社の
境内にありながらも
廣田神社の境外摂社
なのだそうです。
西宮神社とはもともと
廣田神社の境外摂社
浜南宮(はまなんぐう)
であり
明治時代になって
廣田神社から分離独立した
といいます。
ですから、
南宮神社の社殿は
廣田神社を向いている
のだそうです。
「浜南宮」というように
廣田神社の南にある
浜辺の別宮だったようで
かつては、ここが
波打ち際だったようですね。
松林はその時代の
面影を残しているようです。
廣田神社の神宝である
劔珠(けんじゅ)も
中世以前はここに
納められていたといいます。
海中より見つかった珠
だといいますから
浜に祀られたのでしょうか。
ちかくには
南宮神社の末社・
兒社(ちごのやしろ)
も祀られています。
蛭児大神
ご祭神は
えびす大神
だといいます。
商売繫盛の神さま
としても知られていて
七福神(しちふくじん)
のひとりだそうです。
七福神のなかでは
ゆいいつ日本の神さま
だといいます。
しかしながら
「えびす」という神さまは
古事記・日本書紀には
登場しないのだといいます。
西宮神社の
ご由緒によれば
ご祭神の正式名称は
蛭児大神(ひるこおおかみ)
というようですね。
伊邪那岐(いざなぎ・伊弉諾)と
伊邪那美(いざなみ・伊弉冉)の
第1子であり
天照大神の姉
にあたるようです。
蛭児大神であれば
古事記・日本書紀にも
登場するようです。
久美度邇興而生子
古事記
水蛭子
此子者入葦船而流去
夫婦の寝床の 交わりで産まれた子は ヒルコという。 (水蛭のように 手足がなかったので) この子は葦船に入れて 流してしまった。
次生蛭兒
日本書紀
雖已三歲脚猶不立
故載之於天磐櫲樟船而順風放棄
次にヒルコが生まれた。 3歳になっても 足がたたなかった。 それゆえに 天磐櫲樟船(あめのいわくすふね) にのせて 風のままに放った。
どちらにせよ、
身体に不具合があり
生まれてほどなく
船に乗せて流された子
だったようです。
これ以後は
登場しないため
ここでなくなった
とされるようですね。
けれども、
日本各地には
流されたヒルコが
ふたたび流れついた地が
いくつかあるといいます。
えびす
「えびす」とは
江靈住(えびす)
からきていて
遠い海から
江(浜)にやってきた
漂着物に住まう神霊のこと
をいうのだそうです。
ですから、かつては
浜に打ち上げられた
クジラなども
漂着神や寄り神として
『えびす』
といわれたようですね。
そうしたとから、
海の向こうからやってきた神も
「えびす」と称えられたようです。
船で流されたという
ヒルコ(蛭児神)も
どこかの浜に
流れついたことから
えびす(蛭子)
と称えられたようですね。
ほかにも、
事代主神(ことしろぬし)
少彦名神(すくなひこな)
彦火火出見尊(ひこほおでみ)
などの神々が
えびすと称えられるようです。
海からやってきた
ということで
漁業の神としても
信仰されるようですね。
神像
社伝によれば
西宮の鳴尾の漁師が
海中から
ご神像を引き上げたので
自宅でお祀りしていると
神託があり
『われは蛭児の神である
ここより西によき宮地がある
そこに遷してもらいたい』
と伝えられたそうです。
そこで、
廣田神社別宮の
浜南宮の境内に
祀られたといいます。
廣田神社の地は
西宮とも称えられ
蛭児神の神像が
流れついたということで
蛭児神を祀る社は
西宮戎(にしのみやえびす)社
といわれていたらしく
これが、
西宮神社の前身
であるようです。
ヒルコとヒヨルコ
ホツマツタヱには
イサナギとイサナミの
御子として
長女・ヒルコ
次女・ヒヨルコ
が登場します。
似たような名前と
似たような境遇のため
古事記・日本書紀では
ひとまとめにされたようですね。
ホツマツタヱには
それぞれこのようにあります。
それわかは わかひめのかみ
ホツマツタヱ 1アヤ
すてられて ひろたとそだつ
かなさきの つまのちおゑて
そもそも
ワカ[和歌]というものは
ワカヒメに由来します。
イザナギ・イザナミの
第1子である
ワカヒメ[ヒルコ]は
親の厄年の
災いを受けぬように
船に乗せて
捨てられ(流され)ました。
船で流されたワカヒメを
下流で拾って(受け取って)
幼いワカヒメの
養育を託されたのが
カナサキ(住吉大神)です。
ワカヒメは
カナサキの妻の乳を呑んで
すくすく育ちました。
廣田神社の記事でも
載せましたが
長女・ヒルコを
拾った場所というのが
おそらく、ここ
浜南宮(西宮神社)
なのでしょう。
西宮神社で
蛭子大神が祀られるのは
長女・ヒルコが拾われた地
だからかもしれません。
また、
次女・ヒヨルコについては
うたひはらめど
ホツマツタヱ 3アヤ
つきみてす ゑなやふれうむ
ひよるこの あわとながるる
これもまた このかずならす
あしふねに ながすあはちや
イサナギとイサナミは
歌を交わして孕んだのですが
月が満ちるまえに
胞衣がやぶれてしまい
流れてしまいました。
そこでこの子を
身体のまだそろわない
ヒヨルコとしまして
アワ(天地・陽陰)のめぐりの
順序を間違えたために
こうなったのだと[反省して]
この子もまた
長女ヒルコとおなじように
子の数にはかぞえられず
葦舟で流しました。
みずから(吾)の
間違いをはじ(恥)て
ヒヨルコを
流したその地は
淡路(あわじ・吾恥)
としました。
とこのように
淡路島の名の由来まで
伝えているようです。
淡路島の北にある
岩樟(いわくす)神社が
流した地ではないか?
ともいわれるようですね。
長女・ヒルコは
船で流されるものの
生き延びて
ワカヒメとなり
次女・ヒヨルコは
流れてしまったので
舟に乗せて
海にかえしたようです。
似てはいるのものの
まったく違う道を歩んだ
おふたりのようですね。
えびすの森
境内には神苑・
えびすの森
がひろがっています。
兵庫県の天然記念物にも
指定されているらしく
とても心惹かれる
森となっています。
この森に沿うように
たくさんの摂社末社が
ならんでいます。
大国主西神社
平安時代にまとめられた
延喜式(えんぎしき)
にのこる神社を
式内社(しきないしゃ)
というのですが
摂津国・菟原郡の項にある
大國主西神社を
西宮神社に比定する
という説もあるようです。
明治時代に
廣田神社から分離
独立するさいも
はじめは
大国主西(おおくにぬしにし)神社
を名乗ったといいます。
ところが、
大国主西神社は境内社の
大己貴(おおなむち)神社
であるという説もあがり
紆余曲折のすえに
大己貴神社が
大国主西神社とされ
浜南宮[西宮戎社]は
西宮神社となったようですね。
しかしながら、
境内の大己貴神社はもともと
阿弥陀堂だったらしく
享保20年(1735年)に
大己貴命と少彦名命を勧請して
神社になったものだったといいます。
ですから、こちらの
大国主西神社はかつての
阿弥陀堂のようですね。
そして、
西宮神社本殿のほうが
本来の
大国主西神社である
という説もあるようです。
ですから、
西宮神社の本殿では
第一殿(東)に
えびす大神(蛭児大神)
第二殿(中)に
天照大御神・大国主大神
第三殿(西)に
須佐之男大神
が祀られるようですね。
中央に
大国主大神(おおくにぬし)
が祀られているのも
ここが、
式内社・大國主西神社
といわれていたからでしょう。
ただし、
大国主西神社は
西宮市の
越木岩(こしきいわ)神社
の境内にも祀られていて
そちらも式内社に
比定されるようです。
どちらも、
ワカヒメゆかりの神社
なっているのも
興味深いところです。
六甲山神社
大国主西神社のとなりには
六甲山(ろっこうざん)神社
があります。
これも、かつては
六甲山(むこやま)神社
といわれたのでしょう。
六甲山の頂上ちかくにある
六甲山神社の分社・遥拝所
として勧請されたようです。
六甲山はかつて
廣田神社の社領だったので
六甲山神社もかつては
廣田大神が祀られていた
ようですね。
詳しくは
こちらをご覧ください。
百太夫神社
さらにとなりには
百太夫(ひゃくだゆう)神社
が祀られています。
人形遣いの祖神
百太夫神(ひゃくだゆう)
を祀る神社だそうです。
かつて
西宮神社の北側一帯
散所村(現・西宮市産所町)
に棲んでいた
人形遣い・
傀儡師(くぐつし)の一団が
全国にえびす様の神徳を
人形芝居にして
ひろめていったといいます。
やがてその一団は
淡路島に移り住み
淡路島の人形浄瑠璃や
大阪の文楽になったそうです。
いまでも、
人形廻しなどが
奉納されているといいます。
摂社末社
境内には
ほかにもたくさんの
摂社・末社があるのですが
それらについては
またいずれあらためて
西宮神社をたずねたときに
書いてゆきたいと思います。
所在地
〒662-0974
兵庫県西宮市社家町1−17
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