生田裔神八社
兵庫県神戸市にある
生田(いくた)神社
の周辺には
生田裔神八社
(いくたえいしんはちしゃ)
といわれる
8つの神社が
祀られています。
これらの神社を巡拝するのも
神社めぐりの愉しみらしく
生田神社につづいて
順番にめぐっています。
七宮神社
六宮神社(八宮神社)から
1.5キロほど
南へすすむと
七宮(しちのみや)神社
があります。
兵庫津(ひょうごのつ)
の鎮守とされるようですね。
「津」とは
『港』のことですから
神戸港の前身があった地
を守る神社のようです。
活津彦根命
生田裔神八社は
誓約(うけい)で生まれた
五男三女の神々を祀る
といわれていますから
本来であれば、ここは
天照大神の四男にあたる
活津彦根命(いくつひこね)
が祀られているはずです。
滋賀県の
彦根(ひこね)の由来
にもなっているかたです。
ただし、
事跡はほとんど残っておらず
どんなかたなのかよくわかりません。
ホツマツタヱには
ばらきねは いきつひこねぞ
ホツマツタヱ 6アヤ
とあり、
イキツヒコネ
といわれていたらしく
諱(いみな・本名)は
バラキネ(バラギネ・ハラキネ)
といったようです。
ほかに、
ことゆひこ はらきねのおこ
ホツマツタヱ 20アヤ
ともあることから
イキツヒコネ(活津彦根命)
の御子は
コトユヒコ(天事湯彦命)
というようです。
大己貴命
けれども、
七宮神社のご祭神は
大己貴命(おほなむち)
となっています。
古事記・日本書紀では
素戔嗚尊(すさのお)の子孫
出雲大社では
須佐之男命(すさのお)の子
とされるようですね。
このかたは、やがて
出雲の統治を継いで
大国主命(おおくにぬし)
と称えられるかたです。
誓約で生まれた
五男三女には含まれないかた
ですから
生田裔神八社のなかでも
異質な存在となっています。
この祭神は
七つの名を持つといわれ
・大己貴命(おおなむち)
・大国主命(おおくにぬし)
・大物主神(おおものぬし)
・葦原醜男(あしはらのしこお)
・八千矛神(やちほこ)
・大国玉神(おおくにたま)
・顕国玉神(うつしくにたま)
というようです。
「7つ」の称え名から
『七宮神社』になった
ともいわれるそうです。
創建
また、一説には
神功皇后(じんぐうこうごう)が
巡拝したとされる
生田裔神八社のうち
7番目に訪れたことから
七宮神社になったともいうようです。
これらの社は
北斗七星の形にならんでいる
ともいわれるのですが
その形を
おおきく歪めているのも
七宮神社です。
どうやら、
七宮神社はもともと
別の場所に祀られていたのですが
平安時代の末に
平清盛(たいらのきよもり)によって
この地に遷されたといいます。
経が島
かつて、この地は
大輪田泊(おおわだのとまり)
といわれる港であり
奈良時代の僧・
行基(ぎょうき)が築いた
とされています。
平安時代になると
福原京(ふくはらきょう)への
遷都にさきがけて
平清盛は大輪田泊に
経が島(きょうがじま)
という人工島を築く
大改修をおこなったといいます。
港を波浪からまもるだけでなく
潮流の難所から船をまもる
意味もあったようです。
その際、
会下山(えげやま)
の南にあった
塩槌山(しおつちやま)
を切り崩してつかった
のだそうです。
ところが、
暴風雨などがおさまらず
工事が難航したので調べてみると
塩槌山には
大己貴命が祀られていたらしく
大己貴命の祟りではないかと
恐れられたようです。
大己貴命は
兵庫の地を開拓した神
ともいわれるらしく
この地では篤く
祀られていたのかもしれません。
そこで、平清盛は
現在の地へ神社を遷して
『南無七大明神』という
直筆の神号を奉ったところ
暴風雨はおさまり
工事も進んだといいます。
また、
工事が難航したさいには
人身御供を海に捧げて
海神の許しを願った
ともいうようです。
平清盛は
人柱をやめるために
石のひとつひとつに
経を書いて埋めたてた
ともいわれることから
経が島(きょうがじま)
という名がついたようです。
北風家
七宮神社には
天児屋根命(あめのこやね)
も祀られているといいます。
これは、
会下山を拠点とする氏族・
北風(きたかぜ)家が
奉斎していた神だといいます。
この一族は
神功皇后の三韓遠征にも
従って功があったらしく
兵庫の浦一帯の
管理を任されたといいます。
それが、福原遷都のさいに
北浜(七宮神社の地)に移った
といわれるようです。
また、
藤原氏が新興のときに
結びついたともいわれ
白藤(しらふじ)氏
とも名乗ったようです。
この白藤氏が
藤原氏の始祖である
天児屋根命を祀ったのでしょうか?
北浜家の変遷が
七宮神社の遷座とおなじことも
意味があるのでしょう。
おそらく、
神功皇后が巡拝したとされる
七宮神社にはもともと
誓約でうまれた
活津彦根命が祀られていて
北風家が奉斎していた
のではないでしょうか?
けれども、平清盛によって
経が島や福原京が
築かれることになると
北風家は
七宮神社ともどもに
北浜の地へ遷されて
兵庫の港の守りとして
兵庫開拓の神である
大己貴命が祀られた
のかもしれません。
大日霊貴命
本殿にはほかに
大日霊貴命(おおひるめのむち)
猿田彦大神(さるたひこ)
も合わせ祀られているといます。
大日霊貴命とは
天照大神のことですね。
ホツマツタヱでは
ウヒルキ(大日霊貴)
ともいわれて
天照大神の幼名
でもあるようです。
兵庫大神宮
境内にはほかに
兵庫大神宮とかかれた
石碑がありました。
明治時代には
伊勢神宮の神徳をひろめる
神宮奉斎会ができたといいますが
兵庫県の本部長を務めたのが
七宮神社の当時の宮司であり
1.5キロ北西の
兵庫区東山町2丁目には
奉斎殿があったといいます。
昭和21年にはそこを
兵庫大神宮と称して
創建したそうですが
昭和29年には
七宮神社の境内に
遷座されたといいます。
やがて、
阪神淡路大震災により
倒壊してしまうと
七宮神社の
本殿に合祀されたらしく
社号碑だけが
残っているようですね。
兵庫大神宮のご祭神は
・天照大神
・豊受大神
・天御中主神
・高産巣日神
・神産巣日神
・倭比売命
という方々だそうです。
伊勢内宮の祭神
天照大神(あまてらす)
伊勢外宮の祭神
豊受大神(とようけ)
原初の造化三神
天御中主神(あめのみなかぬし)
高産巣日神(たかみむすび)
神産巣日神(かみむすび)
伊勢神宮を創建した
倭比売命(やまとひめ)
ですね。
前身
七宮神社は
延喜式の神名帳にのこる
汶賣(みぬめ)神社
が前身ではないか
という説もあるようです。
しかし、これは灘の
敏馬(みぬめ)神社
も比定されるようですから
よくわかりません。
とはいえ、以前は
北風家ともども
会下山のあたりにあった
とすると
生田裔神八社の
北斗七星の形もずいぶん
ととのってくるようです。
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