廣田神社
兵庫県西宮市大社町には
廣田(ひろた)神社
があります。
旧社格は
官幣大社(かんぺいたいしゃ)
であり
皇室から特別の奉幣をうけた
二十二社(にじゅうにしゃ)
のひとつでもあります。
「西宮」という
地名の由来にもなった
神社であり
阪神タイガースが
戦勝祈願をすることでも
知られているようです。
すっかり
日も暮れかけています。
冠木鳥居
二の鳥居を
ぬけたさきには
このような
鳥居がつづいています。
これは
冠木鳥居(かぶきとりい)形
というようですね。
門柱に貫(ぬき・冠木)
をかけた
冠木門(かぶきもん)
からきているようです。
垣や塀とつながっていて
より冠木門にちかい形の
鳥居もあるようですが
区別としては
扉があるものが門
扉のないものが鳥居
とされるのだそうです。
廣田神社のなかでも
印象にのこる鳥居です。
向津媛命
ご祭神は
天照坐皇大御神之荒御魂
(あまてらしますすめおおみかみのあらみたま)
だといいます。
伊勢の内宮に祀られる
天照大神の
勇猛果敢で活動的な
御霊を祀るようですね。
廣田神社の
ご由緒によると
ご祭神は別名を
撞賢木厳之御魂天疎向津媛命
(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)
というのだそうです。
とても長い神名ですので
尊称を省略させていただくと
向津媛命(むかつひめ)
となります。
瀬織津姫
ホツマツタヱでは
天照大神は男神であり
世継ぎをもうけるために
12人の妃がいたといいます。
そのうち正后となったのが
瀬織津姫(せおりつひめ)
だといいます。
そのなかひとり
ホツマツタヱ 6アヤ
すなおなる せおりつひめの
みやびには きみもきさはし
ふみおりて あまさがるひに
むかつひめ つひにいれます
うちみやに
12人の妃のひとり
心根の真っ直ぐな
瀬織津姫の美しさを
見初めた
天照大神はみずから
階段を踏み降りて
迎えにきました。
そこで、
天照大神が降りてきて
向かい合った姫
ということで
アマサカルヒニムカツヒメ
(天下がる日に向津媛)
と称えられて
ついに
后(内宮)となりました。
ここから
瀬織津姫=向津媛
となるようですね。
瀬織津姫という名も
天照大神(背・男)が
みずから降りたという
「背降りつ」
の意味があるといいます。
くわしくは、
瀬織津姫動画を
ご覧いただけたらと思います。
六甲山
六甲山(ろっこうさん)
の全域はかつて
廣田神社の社領だった
といいます。
六甲山の山頂ちかくにある
六甲山(むこやま)神社も
廣田神社の末社であり
かつては、
廣田神社の奥宮だった
といわれるようですね。
ですから、祭神ももとは
六甲大権現こと
廣田大神(向津媛命)
だったといいます。
向津媛命を祀ることから
向津峰(むかつのみね)
といわれていたのが
向山(むこうやま)
武庫山(むこやま)
六甲山(むこやま)
六甲山(ろっこうさん)
とかわったようです。
瀬織津姫の眠る墓所
ともいわれる
六甲比命(ろっこうひめ)神社
もまた
廣田神社の奥宮といわれ
向津媛(瀬織津姫)が
祀られているといいます。
甲山
西宮のランドマークともいえる
甲山(かぶとやま)はかつて
廣田神社のご神体山
だったといいます。
第二鳥居からは
甲山を眺められますし
廣田神社の本殿は
甲山を背にしているようです。
L字にまがった参道も
意図的なものを感じます。
西宮
平安時代には
都より東の
伊勢神宮に対して
都より西にある
廣田神社を
西宮(にしのみや)
と呼んでいたそうです。
西宮市の地名は
廣田神社からきている
ようですね。
伊勢神宮と
ならびたつほどに
格式高い神社
だったということでしょう。
というのは、やはり
伊勢内宮の天照大神と
廣田神社の向津媛命が
夫婦神だったからでしょうか?
天照大神はなくなられるさい
后・瀬織津姫には
このように伝えたといいます。
またきさき ひろたにゆきて
ホツマツタヱ 28アヤ
わかひめと ともにゐこころ
まもるべし われはとよけと
をせおもる ゐせのみちなり
后・瀬織津姫は 廣田の地に行って わが姉・ ワカヒメの御霊とともに 妹心(女性性)を守りなさい わたしは祖父・ 豊受大神の御霊とともに 背心(男性性)を守ります。 これが 妹背(男女・夫婦)の道 となります。
これによって
瀬織津姫は晩年を
廣田の地で暮らした
といわれるようですね。
妹背(ゐもせ)とは
伊勢(ゐせ)の語源
でもあり
男女和合の道
繁栄の道でもあるようです。
ワカヒメの御霊とは
おなじく西宮にある
越木岩(こしきいわ)神社
のことといわれるようですね。
旧社地
創建当社は
甲山のふもとの
高隈原(たかくまはら)
にあったといいます。
正確な場所は不明
だそうですが
高「天」原ではなく
高「隈」原というのも
クマという言葉に
重要な意味をもたせる
ホツマツタヱに
通じていそうです。
もしかすると、
目神山のあたり
だったのかもしれませんね。
これも、おそらく
瀬織津姫の女神山と
天照大神の男神山(甲山)
という対比であり
妹背の道が
築かれていたのでしょう。
創建
創建は、第14代・
仲哀(ちゅうあい)天皇の后・
神功皇后(じんぐうこうごう)
によるといいます。
西暦でいうと
200年ごろでしょうか?
日本書記によれば
筑紫への遠征中に
仲哀天皇がなくなられると
后であった
神功皇后があとを継いで
海外遠征をおこなった
といいますが
そのさいに、まず
審神者(さにわ)をたてて
神託をうかがったところ
このような
返答があったようです。
神風伊勢國之百傳度逢縣之
日本書記 巻第九
拆鈴五十鈴宮所居神
名撞賢木嚴之御魂天疎向津媛命焉
神風(かみかぜ)の 伊勢(いせ)の国の 百伝(ももつた)う 渡会県(わたらいあがた)の 拆鈴(さくすず) 五十鈴宮(いすずのみや)に いる神で 名は 撞賢木嚴之御魂天疎向津媛命 である
この神託をうけたことで
神功皇后は
朝鮮半島にあった
馬韓・辰韓・弁韓という
3つの国を治める
三韓征伐(さんかんせいばつ)
を遂げたといいます。
さて、その帰路に
大阪湾(難波)にて
船が立ち往生して
動かなくなってしまったので
武庫の港(神戸)に戻って
ふたたび占ってみると
こんどは、このような
神託があったようです。
天照大神誨之曰
日本書記 巻第九
我之荒魂不可近皇居
當居御心廣田國
卽以山背根子之女葉山媛
令祭
天照大神が 教えていうには わが荒魂が 皇后のちかくに居るのはよくない 廣田国に居ることにしよう とおっしゃられたので 山背根子の娘である 葉山姫に祀らせた
こうしてできたのが
廣田神社だといいます。
ですから、祭神は
天照大神荒御魂
とされていて
その御名が
撞賢木嚴之御魂天疎向津媛命
となっているようですね。
祭祀を担った
葉山姫(はやまひめ)
も境内に祀られています。
神功皇后は
歴代天皇には数えられて
いないのですが
「皇」とあるように
皇位についていたととる
考えかたもあるようで
だとすれば
日本初の女帝だった
ともいえるようです。
神功皇后
このとき、
ほかの神々もあらわれて
神託を下したといいます。
生田(いくた)神社には
稚日女尊(わかひるめ)
が祀られ
長田(ながた)神社には
事代主命(ことしろぬし)
が祀られ
本住吉(もとすみよし)神社には
住吉(すみよし)三神
が祀られたといいます。
ただし、住吉3神は
住吉大社(すみよしたいしゃ)
ともいわれるようですね。
これらはみな
神功皇后ゆかりの神社
とされているようです。
興味深いことに
このとき祀られた神々は
ホツマツタヱゆかりの方
ばかりとなっています。
廣田神社の向津媛命は
天照大神の后・瀬織津姫
のことですし
生田神社の稚日女命は
天照大神の姉・ワカヒメ
のことですし
長田神社の事代主命は
大己貴命の子・クシヒコ
のことですし
住吉神社の祭神は
ワカヒメの養父・カナサキ
のことだといいます。
神戸市東灘区の渦が森には
カナサキの墓所ともいわれる
本住吉神社奥宮があるそうです。
神功皇后が
ホツマツタヱの神々を
祀ったことで
現在でも神名や
聖蹟が残されている
ともとれそうです。
劔珠
廣田神社のご神宝には
劔珠(けんじゅ)という
如意宝珠があるそうです。
日本最古の水晶玉であり
玉のなかにある傷が
剣の形に見えることが
由来だといいます。
神功皇后はこの珠を
関門海峡の海中より得たそうです。
そして、
神懸かりするさいには
この珠を使っていたといいます。
武人であり
巫女でもある
神功皇后らしい神宝ですね。
甲山に埋めた如意宝珠とは
どうやらこれのようです。
毎年秋ごろに
公開されているそうですが
告知などはなく
訪れた人が偶然に
拝観できるといいます。
ヒロタ
廣田という地名は
瀬織津姫だけでなく
天照大神の姉・
ワカヒメにとっても
ゆかりの深い地です。
ホツマツタヱにおいて
いちばんはじめに登場する地名
でもあるようです。
40章・約11万字におよぶ
叙事詩『ホツマツタヱ』の
冒頭はこうはじまります。
それわかは わかひめのかみ
ホツマツタヱ 1アヤ
すてられて ひろたとそだつ
かなさきの つまのちおゑて
そもそも ワカ[和歌]というものは ワカヒメに由来します。 イザナギ・イザナミの 第1子であるワカヒメは 親の厄年の 災いを受けぬように 船に乗せて 捨てられ(流され)ました。 船で流されたワカヒメを 下流で拾って(受け取って) 幼いワカヒメの 養育を託されたのが カナサキ(住吉大神)です。 ワカヒメは カナサキの妻の乳を呑んで すくすく育ちました。
ワカヒメを
「拾った」ことに掛けて
この地を
「ヒロタ」と呼ぶように
なったのか、
もともとこの地を
「ヒロタ」と呼んでいて
ヒロタ(拾った)に掛けて
ステラレ(捨てられ)たのかは
よくわかりませんが
なんにせよ
ワカヒメ養育のため
ここに
ヒロタの宮を築いた
ようですね。
ですから、
ヒロタという地は
ワカヒメが
幼年を過ごした場所であり
瀬織津姫が
晩年を過ごした場所でもある
ようですね。
和歌の神
ワカヒメは
和歌の始祖ですから
和歌の神様でもあります。
中世の廣田神社は
和歌の神としても
信奉されていたそうです。
ホツマツタヱの冒頭が
「それわかは」にはじまり
どんなシーンでも
歌を詠んだり
歌の解説をしている
のをみると
日本の心(精神)とは
歌(和歌)に集約されている
のかもしれませんね。
摂末社
境内には、ほかにも
摂社・末社がありますが
それはまたいずれ
詳しく載せたいと思います。
また、
境外にもおおくの
摂社末社があるようです。
そちらもいずれ
載せてゆけたらと思います。
所在地
〒662-0867
兵庫県西宮市大社町 7番7号
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