松姤社
熱田神宮(あつたじんぐう)
の南門をでて
正面の大通りから
東へ20メートルほどゆくと
境外摂社の
松姤社(まつごしゃ)
があります。
ビルにはさまれた小径が
参道となっていまして
奥へすすむと
中庭のような境内が
ひろがっています。
本殿は
ひつまぶしの名店
「あつた蓬莱軒 神宮店」の
裏手にあたるようです。
宮簀媛命
ご祭神は
宮簀媛命(みやずひめ)
だといいます。
ヤマトタケ(日本武尊・倭建命)
の最期の后とされるかたです。
尾張国を治めた豪族・
尾張氏の娘だったようですね。
この地は、そんな
ミヤズヒメとヤマトタケが
出会った場所だといいます。
布曝女町
東方の平定にむかう
ヤマトタケは
尾張国造の館がある
火上山(ひかみやま)[大高山]
をめざしていたようですが
この地で
川辺で布をさらしていた
美しい女性に
火上山までの道を
尋ねたといいます。
けれども、美しい女は
耳が聞こえないふりをして
ヤマトタケをやりすごした
のだそうです。
この女性というのが
のちにヤマトタケの后となる
ミヤズヒメだったようですね。
そこで、このあたりの地名を
「布」を「さら」す「女」と書いて
布曝女町(そぶくめまち)
[曾福女町]
といったそうです。
これは、どこか
「知らないふりをする」という意味の
「うそぶく」にも通じていそうです。
火上山の館にたどり着いた
ヤマトタケは
川辺で出会った
美しい娘と館で再会して
さぞかし驚いたことでしょう。
とはいえ、これもあくまで
伝承のひとつのようです。
聾神
ほかの伝承によると
ヤマトタケが東征のさいには
后・ミヤズヒメは
この地にこもって人を遠ざけ
誰の声も聞かずに
ヤマトタケの帰りを待った
ともいうそうです。
こうしたことから
耳にご利益のある社として
耳の病を癒す
聾神(つんぼがみ)
として信仰されたといいます。
また、
「待つ」という
「女后」の姿が
かつては
海辺だったこの地の
「松」とかさなって
「松姤(まつご)」
といわれたようですね。
松炬島
ほかにも、
「松姤」の由来として
松炬島(まつこじま)
があげられるようです。
約7000年前の
縄文海進によって
名古屋市のあたりは
年魚市潟(あゆちがた)
という
入り江や干潟が
ひろがっていたといいます。
熱田神宮から
名古屋城にかけては
熱田台地(あつただいち)
という台地になっていて
かつては海につきだした
岬のようになっていたそうです。
あたりには、ほかにも
岬や島が点在していまして
なかでも、
交通の要衝とされていたのが
熱田神宮の
3キロ南東にあった
松炬島[松巨島]
だといいます。
いまの名鉄名古屋本線
桜駅のあたりにあったようですね。
ミヤズヒメの母・
真敷刃俾命(ましきとべ)は
松炬島をおさめる
豪族の娘だったといいます。
かつては、ここに
熱田台地と松炬島を渡す
船着き場があった
のかもしれませんね。
火上山の館へゆくのに
松炬島を通ってむかった
ということでしょう。
短歌
ミヤズヒメで
「待つ(松)」といえば
ヤマトタケと交わした
歌が思い起こされます。
誰とも口をきかずに待った
という伝承ものこっている
ミヤズヒメですが
ヤマトタケもそんなヒメと
はやく会いたいと思ったらしく
夜通し走りつめて
尾張まで帰ってきたようです。
みやづひめ ねまきのままに
ホツマツタヱ40アヤ
いてむかふ ひめのもすそに
つきをけの しみたるおみて
やまとたけ みしかうたして
ミヤズヒメは寝巻のままに ヤマトタケを出迎えました。 けれども ヤマトタケはそんな ミヤズヒメの着物の裾に 女性の月のものが 染みているのを 見つけてしまいました。 そこで ヤマトタケはこのような 短歌を詠ったといいます。
「みしかうた」とは
「みちかうた(短歌)」のこと
といいますが
「みちか」は
「身近」にも通じるらしく
歌によって
男女ふたりの距離がちぢまる
相聞歌でもあるようです。
これは、奈良の
葛城めぐりに登場した
ヒナブリの歌に通じていて
アチスキタカヒコネと
シタテルオクラヒメのかわした
短歌(みちかうた)
を下地にしてあるようです。
このおふたりは
葛城の地に住まわれて
カモ氏の原初になった
ようですが
ここにも、
葛城氏と尾張氏のつながりを
見ることができるのかもしれません。
ひさかたの
まずは、
ヤマトタケから歌います。
ひさかたの あまのかぐやま
ホツマツタヱ40アヤ
とがもより さわたりくるひ
ほそたはや かひなおまかん
とはすれと さねんとあれは
おもえども ながきけるその
つきたちにけり
ひさかたぶりの再会に 富士山(香具山)のふもとから 駆けてきたのは かつて、 アチスキタカヒコネと シタテルオクラヒメが 歌によって結ばれ 天香具山の地で 暮らしはじめたように 歌によって結ばれた わたしたちもまた 尾張(終わり)の地で 睦み合いたいと 心が逸ったからです。 あなたがわたしを呼ぶ声を 長い月日をへて ふたたび聴くことができたのは なによりもの喜びです。 いますぐにでも 寝床をともにしたいところ ではありますが あなたの服の裾には 月のものが降りていますね。 しばらくは あなたの声を聞いて 過ごすことにしましょう。
ヤマトタケが
月のものを避けたのは
ヤマトタケに転生した
ソサノヲ(素戔嗚尊)が
生前に悩まされた
母親のクマ(隈・穢)
に関わっているからでしょう。
ソサノヲの心が荒れたのは
母・イサナミが
月のもののときに
交わったからであり
母のクマ(隈・穢)が
子におりたといわれています。
ヤマトタケに転生した
ソサノヲはみずからそれを
くり返すことは
絶対にできなかったのでしょう。
たかひかる
ミヤヅヒメは
これに返して歌います。
たかひかる あまのひのみこ
ホツマツタヱ40アヤ
やすみせし わがおほきみの
あらたまの としがきふれば
うへなうへなきみまちがたに
わがきける おすひのすそに
つきたたなんよ
ヒタカミの地や 東方の地を治めて 帰ってきたのは 原初神・クニトコタチや 天照大神からつづく 日神の血を継ぐかたであり やがてはこの国を率いる 大君(皇)となられるかたです。 そんなかたが わたしの夫であり 荒んだ心をこの地で癒して 休んでいかれるのですね。 月日が経って あなたがこの地で 即位したあかつきには この国がさらにさらに より良くなることでしょう。 それは わたしがあなたを待っていた アイチダ(年魚市潟)の 干潟におしよせる 満潮のように あなたを慕い 称えるひとびとが 上へ上へとこの地にまで 押し寄せてくることでしょう。 天照大神は 裳裾(もすそ)をとられて 滝つぼに落ちるという サクナダリの災難にあい ひとびとの些細な動向にも 注意するようになったといいますが わたしの 襲(おすひ)[祭服]の汚れにも 気づいたあなたは ひとびとをすみずみまで 見ていらっしゃるのですから この世に災難など 起こりようがありません。 いますぐに、あなたと 睦み合うことができないのは とてもとてももどかしいですが わたしがひとり、この地で あなた待っていた月日を想えば あなたのそばで、ともに待つ 月日など何ということもありません。
むしろ、時間なんて
止まってしまえばいいのに
なんて思っていそうです。
ともに互いを慈しみ
気づかいつつも
いますぐに
交われないことを
残念におもい
それでさえも
歌のなかに詠みこんで
昇華させているようです。
アイチダ
縄文海進以降に
名古屋市にひろがっていた
年魚市潟(あゆちがた)は
ホツマツタヱでは
アイチダ
といわれるようですね。
年魚市潟は
愛知県の語源になった
といわれるのですが
だとしたら
アイチダのほうが
より近い言葉ですね。
さて、ヤマトタケは
しばらく尾張に滞在した
ようですから
ミヤズヒメの
月のものが終わってから
睦み合ったことでしょう。
しかし、
そののちヤマトタケは
伊吹山(いぶきやま)へ
向かうこととなります。
このとき、
ヤマトタケはたずさえていた
草薙剣(くさなぎのつるぎ)を
宮簀媛のもとに置いていった
といいます。
伊吹山で返り討ちにあった
ヤマトタケは最期の地・
能褒野(のぼの)で身罷るとき
ミヤズヒメにこんな
遺し歌を詠んだといいます。
あいちだの おとめがとこに
ホツマツタヱ 40アヤ
わがおきし いせのつるぎの
たちわかるやわ
アイチダ(年魚市潟)に暮らす 乙女(后・ミヤズヒメ)の床に わたしが置いてきた 伊勢の剣(草薙剣)は わたしたちの関係を 断ち切るものではなく より深く結ぶためのものです。
この歌には
つづけて解説も載っています。
このわかは いもせのみちは
ホツマツタヱ 40アヤ
つらなりて たちわかるれど
つりのをは きれはせぬぞと
みちびきお たつるあめのり
みやずひめ もたえたえいり
ややいけり
この和歌というのは 妹背(いもせ・男女)の道は ずっとつづいていて たとえ 今生での別れがあっても ふたりを結ぶ 魂の緒(赤い糸)は 切れるものではない という歌です。 これはヤマトタケの 思いを伝えるものであり 誓いをたてる宣言でもあり 男女の仲は 緒(糸)の導きによって 永遠につながっているという 世の法則をも説いています。 ミヤズヒメはこれを聞くと 悶え、絶え入り、悲しみに暮れて やや生きているという有り様でした。
これもまた、
ヒナブリの歌や
カモヰト(赤い糸)にも
繋がるようですね。
ヤマトタケは死期を悟って
ミヤズヒメのもとに
形見としての剣を
あえて置いていった
ということでしょうか。
ぼくの解釈としては
ヤマトタケは
戦に明け暮れた人生のうち
さいごのさいごだけは
敵を討つために
剣を使うのではなく
愛するものを守る垣根として
剣を使いたかった
と取りたいところです。
伊勢とは
妹背(いもをせ)からきている
といいますが
「妹」は女性で
「背」は男性ですから
男性よりもさきに
女性をたてる言葉
でもあります。
ヤマトタケもまた
妹背の道に則って
后をたてたのでしょうか?
愛知
アイチタの「アイ」は
「逢う」「合う」からきている
といいますけれど
ヤマトタケとミヤズヒメの関係から
「愛」という意味が生まれた
としたらとても素敵ですね。
のちに、ミヤズヒメは
ニイハラミヤ(熱田神宮)の
斎宮となったといいますが
ヤマトタケの魂と
ふたたび出会うその日まで
この地で生きながら
待っていたのかもしれませんね。
松姤社お社が
東を向いているのも
愛するヤマトタケの東征
じっと待っていたから
ではないでしょうか?
所在地
松姤社
〒456-0031
愛知県名古屋市熱田区神宮2丁目10
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