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尾張めぐり5 氷上姉子神社

氷上姉子神社の元宮の本殿愛知

氷上姉子神社

熱田神宮(あつたじんぐう)から
南東へ10キロほどゆくと

熱田神宮の摂社・
氷上姉子(ひかみあねご)神社
があります。

ここは、かつて
ヤマトタケ(日本武尊・倭建命)の后・
ミヤズヒメ(宮簀媛命)

ミヤズヒメの兄・
建稲種命(たけいなだね)

ミヤズヒメの父・
乎止与命(おとよ)など

尾張(おわり)氏の一族が
暮らした地
だといいます。

ミヤズヒメは、夫・
ヤマトタケが置いていった

草薙剣(くさなぎのつるぎ)に
奉斎した斎宮(巫女)

だったようですね。

氷上姉子神社の由緒

元宮

ヤマトタケが置いていった
草薙剣(くさなぎのつるぎ)

熱田神宮に祀られる前は
ここに祀られたといいます。

ですから、
氷上姉子神社は
熱田神宮の元宮
とされるようです。

ただし、
現在の鎮座地は

持統天皇4年
[西暦690年]に

火上山(ひかみやま)から
ふもとに遷されたものだといいます。

氷上姉子神社の扁額

火上山

氷上姉子神社のある
丘陵部はかつて

火高(ほだか)とか
火高火上(ほだかひかみ)
といわれたようで

いまでは転じて
大高(おおたか)
という地名になっているようです。

また、
氷上姉子神社のあたりは
火上山(ひかみやま)
といわれるらしく

これが転じて
氷上(ひかみ)
となったようですね。

火上山の頂上付近には
ミヤズヒメや一族の暮らした
邸があったといわれています。

社殿が築かれたのは
仲哀天皇4年
(西暦195年か?)
だといわれていて

これが
氷上姉子神社の創建
とされるようです。

氷上姉子神社の由緒

姉子

氷上姉子神とは
火上山に暮らした斎宮(巫女)
という意味であるとして

ご祭神は
宮簀媛命(みやひめ)
とされるようです。

氷上姉子神社のミヤズヒメの解説

ただし、姉子が
女性神官という意味ならば
ミヤズヒメに限らない
という考え方もあるといいます。

また、
「火上(氷上)」は
「日神」に通じるとして

原初的な
太陽信仰の名残である
ともいわれるようです。

とすれば、第12代・
景行(けいこう)天皇
世継ぎ御子である

ヤマトタケを
天照大神の末裔として
日神とみたのかもしれません。

また、
ホツマツタヱでは

ヤマトタケとは
ソサノヲの転生である
とされていますが

ヤマトタケは
東方平定のさいに

前世である
ソサノヲを称え名・
ヒカワカミ(氷川神)
として祀ったといいます。

氷川神のソサノヲと
熱田神のヤマトタケという

「氷」と「熱」の対比を
みることもできるそうですが

だとしたら、
「火上」とは「氷神」のこと
となるのでしょうか?

年魚市潟

縄文海進以降
名古屋市にひろがっていた

年魚市潟(あゆちがた)
という入り江・干潟から
みてみると

熱田神宮は
熱田台地の南端部

にあたります。

また、ミヤズヒメの母・
真敷刃俾命(ましきとべ)
の故郷である
松巨島(まつこじま)には

ミヤズヒメの父・
オトヨがともに暮らした
館の跡地として

星宮社(ほしみやしゃ)
がありますが、そこは

笠寺台地の南端部
にあたります。

さらに、
干潟をへだてて南には
火上山があり

氷上姉子神社が
祀られていたようですね。

おそらく、
熱田神宮や星宮社を
を眺められたことでしょう。

※ウィキペディア「氷上姉子神社」より

古墳時代の図をみれば
これらの地は

干潟の主要部だった
ことがわかります。

社伝によれば

熱田神宮の創建は
仲哀天皇元年

氷上姉子神社の創建は
仲哀天皇4年

とされますから

草薙剣を
熱田神宮に遷した
のちに

元宮として
氷上姉子神社を築いた
ということでしょう。

氷上姉子神社の元宮の社号碑

オホマノトノ

ホツマツタヱには
ヤマトタケの御霊(形見)が

熱田神宮に祀られた
経緯がくわしく描かれています。

ヤマトタケがなくなったあと
ミヤズヒメの父・オトヨは

ヤマトタケが願っていた
尾張の王宮を築くために

第12代・景行天皇へ
許可を願いでたところ

景行天皇も息子・
ヤマトタケを弔いたいと
国家事業にしたようです。

そうして、尾張の地に
新しい宮が完成すると

大神(おおみわ)神社
斎主・オオタタネコをつかわせて
勅使まで同行させたといいます。

氷上姉子神社の元宮への参道

能褒野(のぼの)でなくなり
白鳥(しらいとり)となって
飛び立ったヤマトタケは

琴弾原(ことびきはら)
古市(ふるいち)
降りたったといわれ

それらの地には
白鳥陵が築かれていた
といいますが

オオタタネコの一行は
琴弾原や古市の陵から

白鳥(ヤマトタケの御霊)が
落とした尾羽を4枚ずつ
ひろいあげたそうです。

さらに、
能褒野に残されていた

ヤマトタケの
冠や笏や衣をひろいあげて


白神輿(しらみこし)
にいれると

尾張の地へ向かった
といいます。

氷上姉子神社の木

こうして
大和からつづいた神輿行列は

ヤマトタケを祀るために
尾張の地に築かれた新宮・

ニイハラミヤ(新蓬莱宮)
[のちの熱田神宮]
までたどりつくと

オホマノトノ(大真の殿)
に白神輿を納めたといいます。

オホマの殿とは、
ヤマトタケの御霊を仮に納める
仮宮のようなもののようです。

しかしながら、
なぜオホマというのかは
よくわかりません。

大口真神


ここから、のちに
ヤマトタケの御霊(形見)は

オホマノカミ(大真の神)
と称えられます。

ホツマ(秀真)[関東]
だけでなく

東日本の反乱勢力(マ)を
平定したことから

オホマ(大真)
と称えられたのでしょうか?

真神(まかみ・まがみ)
大口真神(おおくちまがみ)

といえば

一般的には
ヤマトタケを道案内した
白い狼(おおかみ)のこと
とされるようですが

これも、もとは
ヤマトタケの称え名だった
ようですね。

熱田神宮には
草薙剣を安置したとされる

土用殿(どようでん)
がありましたがあれが

オホマノトノ(大真殿)
の名残なのでしょうか?

また、もしくは、
本殿裏の防空壕

オホマノトノ
の名残なのでしょうか?

氷上姉子神社の元宮の境内

ヒルメシ

オホマの殿には
ミヤズヒメがひとり
すでにはいって

神饌を用意して
待っていたといいます。

      このみけむかし
いぶきより かえさにささぐ
ひるめしお みづからかしぎ
まちおれど よらでゆきます
ちちくやみ いままたきます
きみのかみ むべうけたまえ

ホツマツタヱ 40アヤ
この御饌はむかし

あなたが伊吹山より
無事に帰ってきたら

捧げようとおもって
ヒル飯です。

わたしがみずから作り
あなたを待っていたのですが

あなたはこの地へは寄らず
大和のほうへくだってゆき

能褒野の地で
なくなってしまいました。

わたしはそれを
とても哀しみ悔やんでおりました。

けれども、こうして
いまふたたびあなたの御霊が
帰ってきたからには

どうかわたしの用意した
ヒル飯(御饌)を
いただいてください。

ここでいう
「ヒル飯」は
「昼飯」という意味だけでなく

「霊力(ヒ)」の
「宿(ル)」った
「御飯(メシ)」ということで

清浄な火(鑽火)によって
作りあげた神饌
のこと
のようですね。

ありていに言えば
『愛妻弁当』
といったところでしょうか?

つづけて、
ミヤズヒメはこのような歌を
詠んだといいます。

ありつよの あいちだにまつ
きみがひるめし

ホツマツタヱ 40アヤ
生前はあなたを想い
アイチダ(年魚市潟)でずっと
お待ち申し上げておりました。

いま、御霊となって
この地にお帰りになったからには

どうぞお召し上がりになって
あなたの御威光をお示しください。

ミヤズヒメがこのように
3度歌い上げますと

いよいよ、
瑞兆があったといいます。

氷上姉子神社の元宮の本殿

ハラミツ

      いざよふつきの
ほがらかに しらいとりきて
これおはみ なるしらくもに
かみのこえ こたふつづうた

ホツマツタヱ 40アヤ
十六夜の月ように
ややためらうような
時がすぎると

その歌に誘われたように
どこからともなく

輝くばかりの
白鳥(白霊鳥・白鳳)が
あらわれて

ミヤズヒメが用意した
ヒル飯を食べました。

すると、
白雲があらわれ
神の声によって

19音の歌(ツヅウタ)が
返ってきました。

白鳥が御饌を食べる
というのは

熱田神宮の
土用殿・御田神社にこのる

烏喰(おとぐい)の儀
に通じるものがあるようです。

また、
「なるしらくも」を
「成る白痴者」とするなら

ミヤズヒメが神がかって
神(ヤマトタケ)の歌を伝えた


ともとれそうです。

ありつよの はらみつほしき
ちりおひるめし

ホツマツタヱ 40アヤ
生きているときに
あなたの用意した

御饌をいただき
腹を満たしたかった

そうすれば
わたしの身の穢れも
祓われたことでしょう。

けれども、こうして
彼岸に渡ったいまでも

わたしの形見を拾い上げ
御饌を捧げてくださったので

わたしの御霊からは
いよいよ穢れが祓われました。

とこのような歌が
返ってきたといいます。

「はらみつ」は
腹が満みちるという意味
だけでなく

ひとびとが暮らす
「はら(原)」を満たすという
世の安寧のことでもあり

新しく築かれた
ニイハラミヤ(新蓬莱宮)を
御霊や信仰で満たす
という意味もあるようです。

また、仏教用語の
「波羅蜜(はらみつ)」
にも通じているとするなら

迷いの世界(此岸)から
悟りの世界(彼岸)へ到する

ともとれるでしょう。

ミヤズヒメの歌とおなじく
「ありつよの」ではじまり
「ひるめし」で終わっています。

氷上姉子神社の元宮の碑

ミヤウツシ

白鳥が舞い降りて
神の歌が聞こえるという
霊験があらわれたので

ひとびとは
おおいにおそれて

ヤマトタケの霊ならびに
ミヤズヒメという存在に
心うたれたようですね。

さて、気になるのは
このつぎの一節です。

おがみさる おほまとのより
みやうつし さをしかにぎて
みことあげ このときをしか
たたねこと おはりむらしと
にいはらの おほまのかみと
なつくなり 

ホツマツタヱ 40アヤ
ひとびとが
霊験をおそれ拝んでいると
御神は去っていきました。

そこで、
オホマ殿に納められた
白神輿から

ヤマトタケの形見を
ニイハラミヤ(新蓬莱宮)
[熱田神宮]に遷しますと

勅使は和幣をささげて
祝詞を奏上しました。

このとき
斎主をつとめていた
オオタタネと

尾張連である
ミヤズヒメの父・オトヨは

ヤマトタケの形見を
ニイハラ宮に祀られる

『オホマの神』
と名づけて称えました。

ヤマトタケの形見や御霊が
オホマの殿に仮置きされたのは

ヤマトタケが
伊吹山(いぶきやま)の神に
無礼を働いてなくなったから

とも取れるそうですが

ここにある
ミヤウツシ(宮遷し)
というのがもしかすると

火上山から熱田神宮へ
草薙剣を遷した
という意味かもしれません。

ニイハラミヤの境内地として
松巨島や火上山が含まれていた
とするならば

オホマ殿というのは
氷上姉子神社や
ミヤズヒメの邸宅のこと

なのかもしれません。

だとすれば、
オホマノカミというのは
ヤマトタケの称え名ではなく

ヤマトタケの形見や
草薙剣の称え名のこと

なのかもしれません。

大高斎田

大高神田

氷上姉子神社の
本殿北には

熱田神宮の神田である
大高斎田(おおたかさいでん)
があります。

氷上姉子神社の地に
神田があるというのも

ミヤズヒメのヒルメシによる
のかもしれませんね。

斎山稲荷神社

火上山から回りこむと
斎山稲荷(いつきやまいなり)神社
がありました。

「斎く山」ですから
おそらくここも

ミヤズヒメや尾張氏が
奉斎した聖地なのでしょう。

斎山稲荷神社の鳥居

かつては、よく
熱田神宮や星宮社が
見えたのかもしれません。

ここは、斎山古墳という
古墳のうえに建てられた神社
でもあるようです。
 
ちかくには、
斎山貝塚群という
縄文時代の遺跡も
みつかっているようですね。

斎山稲荷神社の本殿

斎山稲荷神社の奥宮も
本殿の裏手にありました。

とてもとても雰囲気があり
厳かな地であるように感じました。

きちんと、ご挨拶をしてから
堪能させていただきました。

斎山稲荷神社の奥宮

斎山の南には
大廻間池や大廻間遺跡など

大廻間(おおはざま)
という地名が残るようです。

もしかすると、かつて
「オホマ」といった地が
「大間(おおま)」となり


「大間(おおはざま)」と読まれて
「大廻間(おおはざま)」になった

のかもしれませんね。

大廻間公園の周辺遺跡の看板

寝覚めの里

火上山の北の麓には
寝覚めの里(ねざめのさと)
という史跡がありました。

寝覚めの里の石碑

この地でともに過ごされた
ヤマトタケとミヤズヒメは

打ち寄せる潮騒のおとで
目覚めたといいます。

浜辺で夜を明かした
ということでしょうか?

もしくは、これこそ
寝巻で迎えたミヤズヒメの地
ということかもしれませんね。

寝覚めの里の由緒

ホツマツタヱによれば
ヤマトタケはミヤズヒメとの間に
子があったといいます。

それが
タケダ(武田王)
サエキ(佐伯王)だといいます。

尾張の地には
この末裔についても
いくつか伝承があるようです。

所在地

氷上姉子神社
〒459-8001
愛知県名古屋市緑区大高町火上山1−3

尾張めぐり6

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