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尾張めぐり7 尾張氏考

尾張氏と葛城氏の系図愛知

尾張氏

愛知県の
おおよそ西半分にあたる

尾張国(おわりのくに)
を治めた氏族


熱田神宮(あつたじんぐう)
の神職をになった
という

尾張(おわり)氏
について

ホツマツタヱから
迫ってみたいと思います。

熱田神宮

熱田神宮には
ヤマトタケ(日本武尊・倭建命)
が東方の遠征にもちいた

草薙剣(くさなぎのつるぎ)
が納められているといいます。

奉斎したのは
ヤマトタケの后となった

ミヤズヒメ(宮簀媛命)
というかたであり

形見の剣を祀ることで
ヤマトタケを弔ったようです。

ミヤズヒメは
尾張氏の娘であり

ヤマトタケは
尾張氏と結ばれることで
東方平定の足がかりとした
ともいえるようです。

熱田神宮のといえば
尾張国でもっとも有名な神社
といえるのですが

社格としては
尾張国・三宮(さんのみや)
なのだそうです。

真清田神社

では、
尾張国・一宮(いちのみや)
はというと

愛知県一宮市にある
真清田(ますみだ)神社
だといいいます。

ご祭神は
尾張氏の祖神とされる
天火明命(あめのほあかり)
だそうです。

社伝によれば
ご祭神は

大和国(奈良県)の
葛城(かつらぎ)地方にあった
高尾張邑(たかおはりむら)
をでたのち

初代・
神武(じんむ)天皇の
33年3月3日に
この地に祀られたといいます。

尾張氏が
大和国から遷ってきて
最初に拠点とした地

のようです。

年魚市潟

縄文海進によって
尾張国はほとんどが

年魚市潟(あゆちがた)
という

入り江・干潟だった
といいます。

熱田神宮の地も
熱田台地(あつただいち)
の突端にあるため

かつては
海辺に突き出した
岬にあったようです。

ところで、おとなりの
三河国・三宮の
猿投(さなげ)神社には

そんな時代の
年魚市潟の全体像を写した
古地図が残っているといいます。

尾張国の古代地図

奈良時代に描かれたものとか
近世の偽物であるとか
議論が尽きないようですが

これをみれば
年魚市潟の中心にある

もっともおおきな
「中島」に一宮があった
ようですね。

よくみれば、
「中島」の南西には
「津島」とありますので

津島(つしま)神社
の地なのでしょう。

おなじように
「中島」の南東には

「熱田」(熱田神社)
「星崎」(星宮社)
「鳴海」(鳴海神社)
「大高」(氷上姉子神社)
の字がみえます。

中島のすぐ東にある
「小牧」には

小針(おばり)の地名と
尾張(おばり)神社があり

「尾張発祥の地」
ともいわれるそうです。

けれども、これは
近代の後づけとも
いわれています。

そのすこし上には
「楽田」とあり

尾張国二宮・
大縣(おおあがた)神社
が祀られています。

尾張氏流入以前の
開拓神を祀る
ようですね。

さらにうえには
「犬山」とあり

当時の
木曽川(きそがわ)
河口だったようです。

尾張氏を祀る
針綱(はりつな)神社

尾張氏のものといわれる
東之宮古墳があります。

志段味古墳群の白鳥陵の白石

地図中央東には
「志段味」とあります。

尾張氏を祀る
尾張戸(おわりべ)神社
が祀られていて

尾張氏のものとされる
志段味(しだみ)古墳群
がひろがっています。

志段味古墳群の白鳥陵の説明

猿投神社の古地図をみれば
尾張氏と尾張国の関係が
すごくよくわかってきます。

津島・古地図さんぽ 第0回
ここは歴史ある町、津島。 時代は移り変わっても、町を歩けば昔の面影がチラリと顔を覗かせてくれる町です。 たまにはスマホを置いて、古地図を片手にノンビリと津島を歩いてみませんか。 毎日見ている景色が、面

古地図には
船の絵もあるように

島を船で移動する
海洋国家だったのでしょう。

中島からはじまって
周辺に勢力をひろげていった
とみるべきらしく

ヤマトタケ・ミヤズヒメの時代には
「大高」のあたりが

尾張氏の本拠地だった
ということのようですね。

志段味古墳群の白鳥陵の石碑

高尾張邑

「尾張(おわり)」
という言葉の由来は

奈良県の
葛城(かつらぎ)にあった

高尾張邑(たかおはりむら)
からきているといわれます。

葛城の由来ともなった
カツラギヒトコトヌシを祀る
葛木一言主神社のすぐ北には

第2代・
綏靖(すいぜい)天皇
高岳宮(たかおかのみや)
があったといいますが

そこがかつての
高尾張邑だったようです。

尾張氏は
大和国(奈良)ではじまり


のちに
年魚市潟(愛知)へ遷った
ようですね。

足長蜘蛛

ホツマツタヱにも
タカオハリ(高尾張)
は登場します。

初代・神武天皇は
筑紫(九州)をたって

大和(奈良)盆地まで
東征をおこない

親戚にあたる
ニギハヤヒ軍を討つと

2つにわかれていた
朝廷をひとつにして

初代天皇へと
即位をします。

しかしながら、
ニギハヤヒ軍が
討たれたのちも

最後まで
対抗し続けた民が
いたようです。

      たかおはりへが
せひひくて あしながくもの
おおちから いわきおふりて
よせつけず

ホツマツタヱ 29アヤ
タカオハリに暮らす
まつろわぬ者たちは

みな背が低くて
性根も悪く
力の強いものばかりで

迫りくる皇軍にも
攻撃をしかけてきて
寄せつけなかった。

ホツマツタヱでも
まつろわぬ者たちのことは

反抗する
土着民という意味で

土蜘蛛(つちぐも)
といっていたようです。

なかでも、
最後(終わり)まで抗戦した
タカオハリのものたちは

悪事を長くはたらいた者
という意味なのか

足長蜘蛛(あしながくも)
[悪し長く者]
と揶揄されたようですね。

くずあみお ゆひかふらせて
ややころす すへをさまれば

ホツマツタヱ 29アヤ
足長蜘蛛を
討ち治めるときには

天照大神が
ハタレ(反乱軍)を
討ったときと同じように

葛で網を結うことで
ようやく捕らることができた。

これで、大和の地は
反抗するものもいなくなり
すべて治まった。

「ややころす」とあるように
すべてを討ったわけではなく

恭順したものもいた
のかもしれません。

高尾張の地を治め
足長蜘蛛の残党を
従えた一族が

のちの
尾張氏なのでしょうか?

「アシ」ナガクモと
「タカ」オハリというと

『もののけ姫』の「アシタカ」を
思い起こしてしまいます。

尾張氏系図

尾張氏には
系図が残されていて

天津神からつづく
系譜が記されています。

東京国立博物館デジタルライブラリー / 尾張氏系図

こちらと照らしながら
ホツマツタヱの記述をもとに

ざっくりと
組みなおしてみました。

尾張氏と葛城氏の系図

こうみれば
各史書や社伝とも
辻褄があうようです。

天火明命

まず、
尾張氏の祖神ともいわれる
天火明命(あめのほあかり)
ですが

ホツマツタヱでは

天照大神の孫・
クシタマホノアカリ(櫛玉火明命)

天照大神の曾孫・
ホノアカリ(天火明命)

がいらっしゃいます。

孫の
クシタマホノアカリは

大和(奈良)盆地に
朝廷をひらいたのですが

子が生まれないままに
なくなってしまったので

天照大神の曾孫にあたる
ホノアカリを養子として

大和(奈良)盆地の
朝廷を継がせたといいます。

しかしながら、
ホノアカリの子・
ニギハヤヒ(饒速日命)

義父にあたる
ナガスネヒコとともに
増長したので

神武天皇に討たれて
ふたつにわかれていた
朝廷が統一されたというのが

ホツマツタヱにのこる
神武東征だといいます。

尾張氏は
ニギハヤヒ(クニテル)の兄・
タケテルの血統を継ぐようです。

尾張氏と天火明命

タケテルは
父・ホノアカリが
かつて治めていた

富士山(ハラミ山)の
麓にある宮を継いだようです。

そこで、タケテルは
ハラヲキミ(蓬莱皇君)
と称えられたようですね。

神武天皇の東征まで
ナガスネヒコの勢力を
大和盆地におさえこんでいた

ようです。

タケテルは
神武天皇即位後もそのまま
富士山のふもとの宮を継いで

土地や歴史や教えを
守っていた
ようですね。

タケテルの子孫(別名?)・
タケヒテルは

第7代・
孝霊(こうれい)天皇
親交をむすんだようです。

きみゑみて このたけとめお
とみにこふ たけつつくさの
まつりつぐ たけだのをやぞ

ホツマツタヱ 32アヤ
孝霊天皇はお喜びになって
タケヒテルの子・

タケトメを
大臣にとりたてました。

そうして、
タケツツクサの後任として
祀りを継がせました。

これが、
タケダの祖となります。

「まつりつぐ」
どう解釈するのかは
さまざまあるでしょうが

これは
「養子になった」とか

「祭事・政治を
代わりに担った」
というだけでなく

「家督を継いだ」
という意味かもしれません。

そこで、こんどは
タケツツクサ(建筒草命)
の系譜をみてゆきます。

天香語山

尾張氏の祖神としては
天火明命だけでなく

天香語山命(あめのかごやま)
の名もみられます。

これは、
タケツツクサの祖が
カゴヤマ(天香語山命)

だからのようです。

尾張氏と天香語山の系図

カゴヤマは
富士山の管理を任された
オオヤマズミ家のものです。

父・カグヤマは
クシタマホノアカリとともに
大和盆地にやってきたらしく

大和三山のひとつに
天香久山(あめのかぐやま)
があるのも
この一族によるようです。

カゴヤマの子が
タカクラシタ(高倉下命)
といいまして

数奇な運命をたどったかた
のようですね。

クシタマホノアカリの
養子となるものの
離縁されたり

熊野の隠れ住んでいると
神武天皇を助けることになって
取りたてられたり

さいごは、弥彦神となって
越後国・新潟のあたりに
住まわれたようですね。

タタクラシタの子が
アメヰダキ(天五多底命・天村雲命)
アメオシヲ(天忍男命)
と続いてゆきます。

アメオシヲはどうやら
葛城国造・ツルギネ(剣根)の
娘をめとった
らしく

カゴヤマの末裔が
葛城氏の家督を継いだ?

ようですね。

そして、この
アメオシヲの子孫が
タケツツクサ(建筒草命)
となるようです。

天皇の后も輩出した
有力氏族だったようですが

タケツツクサの代で
タケテルに家督が
譲られたようですね。

富士山を守ってきた
オオヤマズミ家の血を継ぐ

タケツツクサの跡を

富士山の麓の宮をおさめた
ホノアカリの血を継ぐ

タケテルが担った

ということなのでしょう。

葛城氏

では、こんどは
アメオシヲが継いだ
葛城氏についてみてゆきますと

天照大神の弟・
ソサノヲにはじまり

葛城の地をひらいた
カツラギヒトコトヌシ
へとつづき

勝手神ともいわれる
カツテへとつながるようです。

志段味古墳群の勝手塚の説明

ツルギネの娘はほかに
第2代・綏靖天皇に嫁いだ
ようですからこれが

綏靖天皇の高丘宮が
葛城にあった理由
かもしれません。

しかし、綏靖天皇と
ツルギネの娘のあいだに
子はなかったので

ツルギネは家督を
アメオシヲに託した

のでしょうか?

尾張氏と葛城氏の系図

アメオシヲの娘は
第5代天皇と結ばれ
第6代天皇を産んだので

ずいぶんと
勢力を増していたようです。

先代旧事本紀では
アメオシヲの子・
建額赤命(たけぬかあか)

葛城尾治置姫
(かつらぎのおわりのおきひめ)
をめとって

建筒草命(たけつつくさ)
が生まれたといいます。

だとすると、
ホノアカリの子孫・
タケトメは

カゴヤマの子孫・
タケツツクサの
家督を継いださいに

富士山の麓の宮から
奈良葛城の地に遷った

ということでしょう。

尾張連

ホツマツタヱの最終章
40アヤはこうはじまります。

まきむきの ひしろのこよみ
よそひはる やまとだけきみ
きそぢより いたるおはりの
たけどめが まこのむらじの
ゐゑにいる つまみやずひめ
みやこより おくりてちちが
ゐゑにまつ 

ホツマツタヱ 40アヤ
景行天皇41年春
ヤマトタケ君は
木曽路をたどって帰り

タケトメの子孫にあたる
尾張の連の家にはいった

ヤマトタケの妻・ミヤズヒメは
父とともに都からこの地へもどり
尾張の家で待っていました。

ここにある
尾張連(おわりのむらじ)
とは尾張氏のことで

ミヤズヒメの父・
乎止与命(おとよ)のこと
をいっていると思われます。

ホツマツタヱでは
タケトメの「まこ(子孫)」
とあるだけですから

尾張連が何代目なのかは
よくわかりませんが

先代旧事本紀や
新撰姓氏録では

建斗米命(たけとめ)
建多乎利命(たけだおり)
乎止与命(おとよ)

つながっていくようですから
「まこ(孫)」のようですね。

また、
タケダオリ(タケダ)は
葛木坐火雷神社
笛連の祖だとされますから

タケダオリ以降に
大和(奈良)葛城から
尾張(愛知)年魚市潟に遷った

のでしょう。

タケトメの子孫にはほかに
オオアマヒメがいて

第10代・
崇神(すじん)天皇の
妃となっていますが

おはりかめ おおあまうちめ

ホツマツタヱ 33アヤ
尾張連の娘・
オオアマヒメ(大海媛)を
妃(内侍)とした

とありますから

崇神天皇の時代には
尾張連(尾張氏)となっていた

ようですね。

葛城の高尾張邑から
年魚市潟(愛知)に
遷ったことで

出身地名からとって
尾張連と名乗った

という流れでしょうから

崇神天皇時代には
年魚市潟にいたのでしょう。

ですから、
尾張氏というのは

ホノアカリ(天火明命)
の子孫が

カゴヤマ(天香語山命)
の子孫の家督を継いださい

葛城国造が治めてきた
葛城の地もたまわり

葛城高尾張邑で興った
のですが

崇神天皇の時代前後に
年魚市潟(愛知)へ遷った

という流れのようですね。

後年、
葛城氏の祖ともいわれる
葛城襲津彦(かつらきのそつひこ)

尾張連が
年魚市潟に遷ったあとに

葛城の地を
治めることとなったのでしょう。

建稲種命

ミヤズヒメの兄・
建稲種命(たけいなだね)
については

ホツマツタヱには
登場しません。

しかし、
おそらくこのかたが
尾張連の長となって

熱田神宮の
大宮司を担ったのでは
ないかとおもわれます。

建稲種命の子・
尾綱根命(おつなね)

第15代・
応神(おうじん)天皇のもとで
大臣して活躍したといいます。

さらに、
建稲種命の孫は
応神天皇の妃となって

第16代・
仁徳(にんとく)天皇を産んだ
といいますから

尾張氏はさらに
重要な存在になっていった

ようですね。

また、
皇室にとっても
転換期となった

第26代・
継体(けいたい)天皇
妃も尾張氏だったらしく

第27代・
安閑(あんかん)天皇

第28代・
宣化(せんか)天皇
を産んだといいます。

尾張氏の本家のほうは
熱田神宮の大宮司職を
代々つとめていたようです。

けれども、
平安時代の後期に
藤原季範(ふじわらのつねのり)
が尾張氏の娘とむすばれると

以後は、藤原氏が
熱田神宮の大宮司職を
務めたといいます。

ニイハラミヤ

ホツマツタヱによれば

ヤマトタケは
アツタカミ(熱田神)
と称えられて

ニイハラミヤ(新蓬莱宮)
に祀られたといいます。

これが、現在の
熱田神宮のことらしく

いまでも、熱田神宮の地は
蓬莱島(ほうらいじま)
蓬ヶ島(よもぎがしま)

などといわれるようです。

天照大神の孫・
ニニキネの活躍に憧れて

ソサノヲの御霊は
ヤマトタケに転生した
といわれ

ニニキネが暮らした
富士山の麓の
ハラミヤ(蓬莱宮)を


写しとったような新宮・
ニイハラミヤ(新蓬莱宮)

を築くことは

ヤマトタケ(ソサノヲ)にとって
思い入れが強かったといわれます。

けれども、それならば
尾張氏にとっても

ハラミヤは
始祖・ホノアカリや
子・タケテルが治めていた地

ですから

ヤマトタケ以上に
願いは強かったことでしょう。

尾張国

ヤマトタケはなぜ
草薙剣を置いていったのか

ヤマトタケはなぜ
最期に大和を目指したのか

さまざまな解釈が
できる部分でもあります。

ミヤズヒメとしても
草薙剣があったからこそ

ニイハラミヤ(新蓬莱宮)
を築くことができて

奉斎する氏族として
地位を確かにしたようです。

もしかすると、
氏族名にすぎなかった
「尾張氏(尾張連)」が

ニイハラミヤを築いたことで
朝廷から国として認められ


尾張国(おわりのくに)
が生まれたのかもしれません。

ヤマトタケは剣によって
后の未来や子孫を守った

ということかもしれません。

タケダ

ホツマツタヱによれば
ミヤズヒメはヤマトタケとの間に

タケダ(武田王)
サエキ(佐伯王)


という
2人の御子を産んだといいます。

タケテル以降、尾張氏には
タケの字がつくようですから

タケダ(武田王)も
重要人物だったのでしょう。

愛知県一宮市の
宅美(たくみ)神社
の祭神であり

この地に暮らしたという
伝承が残るようです。

建稲種命の名が
ホツマツタヱにはないことから

ミヤズヒメの子・
タケダというのが

タケイナネ(建稲種命)
だったのでは?

というのは
ちょっと考えすぎでしょうか😆

そうなるとまた、
皇統が複雑になってしまうので

記紀では、ミヤズヒメの
御子の記述が消されてしまい

建稲田命は兄である
とされたのかもしれませんね。

ホツマツタヱによれば
熱田神宮の斎宮も神主も

伊勢神宮の斎宮と神主と
同じく扱ったといいますから

このあたりに、
ヤマトタケや尾張氏への
なみなみならぬ配慮を
感じてしまいます。

尾張めぐり ~終~

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