熱田神宮
愛知県名古屋市には
熱田神宮(あつたじんぐう)
があります。
ここには、
草薙剣(くさなぎのつるぎ)
が納められているといいます。
天叢雲剣
草薙剣とは
古事記・日本書紀によると
天照大神の弟・
スサノオ(素戔嗚尊・須佐之男命)の
ヤマタノオロチ(八岐大蛇)退治のさい
八岐大蛇の尻尾のさきから
みつかった剣だといいます。
もともとは
天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)
といわれていたようですね。
この剣は、兄・
天照大神に献上されたのち
天照大神の孫にあたる
瓊瓊杵尊(ににぎ)が
地上に降りたつという
『天孫降臨』のさいに
三種の神器のひとつとして
手渡されたといいます。
こうして、しばらくは
皇室・皇居で管理されていた
ようなのですが
天照大神の御霊が
伊勢神宮(いせじんぐう)
に遷されたさい
ともに、天叢雲剣も
伊勢へ遷ったようです。
草薙剣
やがて、第12代・
景行(けいこう)天皇の御子・
ヤマトタケ(日本武尊・倭建命)
が東方の平定に向かうさい
伊勢神宮の斎宮であった叔母・
ヤマトヒメ(倭姫命)は
伊勢に置かれていた神剣・
天叢雲剣を手渡して
ヤマトタケの
武功を願ったようです。
そうして、
遠征にむかった
ヤマトタケは
静岡の浜辺(港)で
賊の火責めを受けたさい
この剣で
草を薙いで向かい火を作り
難を逃れたことから
この剣を
草薙剣(くさなぎのつるぎ)
というようになったそうです。
宮簀媛
東方の平定をおえた
ヤマトタケは
尾張の地で待っていた妻・
宮簀媛(みやずひめ)
のもとへ帰ってきます。
ふたりはともに陸み合い
ここに宮を築いて暮らそう
としていたのですが
伊吹山(いぶきやま)
の神が荒ぶっているという
知らせがはいってきたので
やむをえず、ヤマトタケは
討伐に向かったといいます。
このとき、ヤマトタケは
宮簀媛のもとに
草薙剣を置いていった
のだそうです。
そのために、ヤマトタケは
伊吹山の神の返り討ちにあい
致命傷を負ったといいます。
敗走するヤマトタケは
尾張には戻ることなく
朝廷のある大和を目指して
南下していったそうです。
けれども、あえなく
能褒野(のぼの)の地で
なくなったといいます。
熱田神宮の縁起では
宮簀媛は夫・
ヤマトタケを弔うため
尾張の地に宮を建てて
ヤマトタケが置いていった
草薙剣を祀ったようです。
これが
熱田神宮のはじまり
だといいます。
熱田大神
熱田神宮の祭神は
熱田大神(あつたのおおかみ)
だといいます。
熱田神宮によれば
熱田大神とは
『 草薙神剣を 御霊代(みたましろ)としてよらせる 天照大神 』
なのだそうです。
草薙剣にやどる
天照大神の御霊だといいます。
草薙剣はあくまで
「ご神体」であって
祀られているものは
「御霊」であるということ
なのでしょうか?
熱田大神とは何なのかには
他にも諸説ありまして
よくわからないというのが
実情のようです。
ホツマツタヱでは
アツタカミ(熱田大神)とは
ヤマトタケ(日本武尊)のこと
とされるようです。
つげにより なもあつたがみ
ホツマツタヱ 40アヤ
みやずひめ いつきにくらべ
かんぬしも みやづかさなみ
『 第12代・景行天皇は 夢の告げをうけて ヤマトタケを 熱田神(あつたかみ) として祀ることとして ヤマトタケの妻・ 宮簀媛命(みやずひめ) を奉斎させました。 そうして、 伊勢の斎宮と ならぶ存在とすると 神主もまた 伊勢の宮司と 同格にしました 』
なぜ、
『熱田神』と呼ばれたのかにも
さまざまな理由があるようです。
ヤマトタケは
ソサノヲの転生である
というのは
津島(つしま)神社でも
あげましたが
ホツマツタヱによれば
ソサノヲは称え名として
氷川神(ひかわかみ)
として祀られたといいます。
ソサノヲの「氷川」
ヤマトタケの「熱田」は
「氷」と「熱」の対比
ともいわれるようですね。
また、ソサノヲの御霊の
熱を冷ますという意味で
「熱(あつ)さ」を
「治(た)す」からきている
ともいうようです。
さらに、ここには
「篤(あつ)く」
「沙汰(さた)する」
の意味もあるのでしょう。
ひとびとが世を生きるために
重要なことを伝えきった
ということも
詠まれているようです。
相殿神
相殿神として
祀られているのは
- 天照大神(あまてらす)
- 素盞嗚尊(すさのお)
- 日本武尊(やまとたける)
- 宮簀媛命(みやすひめ)
- 建稲種命(たけいなだね)
の5柱だといいます。
建稲種命は
宮簀媛命の兄にあたり
尾張国造だったかたで
ヤマトタケの遠征では
副将軍となって
武功をあげたようです。
建稲種命の孫娘はのちに
第15代・応神(おうじん)天皇
の后となって
第16代・仁徳(にんとく)天皇
の母になったといいます。
皇室とも深く関わる
血筋となってゆきます。
尾張氏
建稲種命や宮簀媛命は
尾張(おわり)氏
だといいます。
日本書記では
天照大神の孫にあたる
天火明命(あめのほあかり)
の子孫とされるそうです。
ホツマツタヱで
天照大神の孫といえば
ニニキネ(瓊瓊杵尊)
の兄にあたる
クシタマホノアカリ(櫛玉火明命)
がいらっしゃいます。
奈良盆地へくだって
アスカに朝廷を
ひらいたかたです。
けれども、
クシタマホノアカリは
子もないままに
なくなってしまいますので
兄・ニニキネの
長男にあたる
ホノアカリ(天火明命)
[斎名:ムメヒト]
が養子となったようです。
ホノアカリ(ムメヒト)は
クニテル(ニギハヤヒ[饒速日命])と
タケテル(タケヒテル[武日照命])を
産んだといいますが
この、タケテルの系譜が
尾張氏となってゆくようですね。
タケテルは
葛城(かつらぎ)氏の
マツリ(政)を継いで
養子となった?らしく
これによって
尾張氏と葛城氏は
深い関係で結ばれた
ようです。
「尾張」という言葉も
奈良の葛城にあった
高尾張邑(たかおはりむら)
に由来するらしく
葛城の端のほう
葛城の張りでたほう
葛城の終わりのほう
という意味があるようです。
ホツマツタヱでも
『タカオハリ(高尾張)』
とでてきます。
奈良・葛城の地から
愛知・尾張の地に遷ったのは
タケテルの子であり
タケテルの孫
オトヨ(乎止与命)が
尾張連(おわりのむらじ)
となったようですね。
オトヨというのは
建稲種命や宮簀媛命の
父だといいます。
熱田神宮ができると
尾張氏が宮司職を担った
ようですね。
氷上姉子神社
建稲種命や宮簀媛命が
暮らした地は
熱田神宮の
境外摂社となっている
氷上姉子(ひかみあねご)神社
の地とされているようです。
ヤマトタケがおとずれて
睦み合った地というのも
ヤマトタケが
剣を置いていったのも
そのあたりのようですね。
熱田神宮の地とは
すこし離れています。
では、なぜ、あえて
熱田神宮の地を選んで
剣を祀ったのでしょうか?
蓬莱島
名古屋市中心部には
熱田台地(あつただいち)
とよばれる台地があり
北は名古屋城から
南の熱田神宮まで
ひろがっているといいます。
いまでは
埋め立てがすすんでいて
面影もわかりにくいですが
かつて、熱田神宮は
海に突き出した
岬のようになっていたそうです。
また、神宮の境内地には
老松や古杉が繁ることから
蓬莱島(ほうらいじま)
と称えられたそうです。
「蓬莱」という言葉は
中国の神仙思想からきている
と考えられるようです。
しかし、これも
ホツマツタヱによれば
ハラミヤマ(富士山)
の麓にあった
ハラミ(蓬莱)の宮
に由来するようです。
きみのたまはく
ホツマツタヱ 40アヤ
さかおりの みやはむかしの
はらのみや なおながらえり
わがねがひ うつしてひめと
たのしまん
『 ヤマトタケが おっしゃることには 「 サカオリ(酒折)宮は 昔のハラミ(蓬莱)宮を 改修したものであり いまなお健在しています。 わたしの願いは サカオリ宮(ハラミ宮)を 写したような宮を築いて ミヤズヒメとともに 余生をそこで過ごしたい 」 』
ヤマトタケは
伊吹山にむかう前に
こんな言葉を
残していたようですね。
ヤマトタケがなくなったあと
尾張のひとびとは
ヤマトタケの願いを
すこしでも叶えようとして
サカオリ宮(ハラミ宮)を
絵図に写しとってから
ヤマトタケを祀る宮を
新たに築いたそうです。
ですから、そこを
ニイハラ(新蓬莱)宮
といったのだそうです。
これが、いまの
熱田神宮のようですね。
おそらく、この
ニイハラ(新蓬莱)
ハラミ(蓬莱)が転じて
蓬莱(ほうらい)島
といわれたのでしょう。
ほかにも
蓬(よもぎ)が島
なんて呼び方もあったようです。
ヤマトタケのなきあと
尾張氏によって祀られた宮
ですから
おそらくここも
尾張氏の聖地だった
のでしょう。
熱田神宮にもほどちかい
白鳥(しらとり)古墳や
断夫山(だんぷやま)古墳は
ヤマトタケの墓所や
妻・宮簀媛命の墓所とも
いわれているのですが
尾張氏の有力者のもの
とも考えられるのだそうです。
境内社
ここからはざっくりと
境内社をみてゆきます。
上知我麻神社
上知我麻(かみちかま)神社は
宮簀媛命の父・
乎止與命(おとよ)
を祀っているようです。
尾張国造や尾張連といわれ
繁栄の礎を築いたようですね。
下知我麻神社
下知我麻(しもちかま)神社は
宮簀媛命の母・
真敷刀俾命(ましきとべ)
を祀っているといいます。
「知我麻(ちかま)」は
「千窯(ちかま)」にも
通じているらしく
このあたりに
塩竈がおおくあった
ともいうようですね。
また、
上知我麻神社も
下知我麻神社も
もともとは
星宮社の境内にあった
ともいうようです。
孫若御子神社
孫若御子(ひこわかみこ)神社は
尾張氏の祖神・
天火明命(ほのあかり)
を祀っているようです。
かつての社格は
名神大社だったともいわれ
境内社のなかでも
別格のようですね。
日割御子神社
日割御子(ひさきみこ)神社も
かつての名神大社であり
天照大神の皇子・
天忍穂耳尊(おしほみみ)
を祀るといいます。
おそらく、
尾張氏の祖・天火明命
の父親として祀られた
のでしょう。
であれば、
ホツマツタヱ的には
ホノアカリ(天火明命)
[斉名:ムメヒト]の
父親といえば
ニニキネ(瓊瓊杵尊)
でしょうか?
日割(ひさき)というのが
朝廷が2つにわかれた
という意味だとすれば
ホツマツタヱにも
沿うようですね。
南新宮社
南新宮社(みなみしんぐうしゃ)は
素戔嗚命(すさのお)
を祀っていました。
ヤマトタケに宿った
ソサノヲの御魂を
思いおこしてしまいます。
また、ここは
丹塗りの社殿であり
天王(てんのう)祭
も行っていたことから
かつては
牛頭天王(ごずてんのう)
を祀っていた
津島信仰の社
なのでしょう。
熱田神宮の
本殿の旧社地の
真南にあったことから
「南」新宮というようです。
ホツマツタヱ的には
『ニイハラ宮』の名残
なのかもしれませんね。
となりには
曽志茂利社(そしもりのやしろ)
という神社もあり
ホツマツタヱからひも解くと
とても面白いです。
龍神社
龍(りゅう)神社に
祀られているのは
吉備武彦命(きびのたけひこ)
大伴武日命(おおとものたけひ)
だといいます。
どちらも、
ヤマトタケの遠征に
つかえた武人であり
ヤマトタケの
右腕左腕のような
存在だったようです。
一之御前神社
一之御前(いちのみさき)神社は
境内の北西にあります。
「こころの小径」から
はいってゆくのですが
本殿裏の一帯は
2012年12月まで
禁足地だったらしく
一般の参拝が
できなかった社
だそうです。
いまでも
撮影等が禁止され
駐在員さんまで
詰めていらっしゃいます。
熱田神宮の祭祀はすべて
この社からはじまる
ともいわれるようですね。
ご祭神は
天照大神の荒魂
だそうですが
「御前」とあることから
女性的な気もいたします。
旧鎮座地は
別の場所にあった
ようなのです。
防空壕
熱田神宮の
本殿の真裏にあるのが
防空壕跡といわれるこちらです。
なんの看板もないものの
とても雰囲気がありあす。
ここも、かつての
古墳を利用したものでしょうか?
宮簀媛命が眠っていても
おかしくないかもしれません。
清水社
清水社(しみずしゃ)は
水が湧く聖地ですね。
美容だけでなく
眼病に効くといいます。
ご祭神は、水の神・
罔象女神(みずはのめ)
だそうです。
ここもとても
素晴らしい場所ですね。
土用殿
かつて、
草薙剣を納めていたという
土用殿(どようでん)です。
丑の日の
土用ですね。
となりにある
御田神社とともに
不思議な神事が
あるといいます。
御田神社
御田(みた)神社には
大歳神(おおとしのかみ)が
祀ってあるといいます。
10月の例祭では
祭典のまえに
神職のかたが
「ホーホー」と唱えながら
土用殿の屋根に
お供えものを投げて
烏に食べさせる
という
『烏喰(おとぐい)の儀』
があるといいます。
かつては、
烏がお供えものを食べなければ
祭典がはじまらなかったそうです。
徹神社
徹社(とおすのやしろ)は
天照大神の和魂
を祀っているといいます。
祭神としては
一之御前神社と
対になっているようですね。
大楠
手水舎のとなりには
弘法大師・空海が
手植えされたという
大楠があります。
これもじつに見事です。
八剣宮
本殿とおなじくらい
崇敬されているのが
別宮・八剣宮
(やつるぎのみや・はっけんぐう)
だといいます。
祭神も
熱田神宮の本宮と
まったく同じであり
祭典・神事まですべて
本宮に準じて行われるといいます。
創建は和銅元年で
勅命により神剣を作って
祀ったのが創起といわれています。
草薙剣は
三種の神器のひとつ
といわれているのですが
現在、皇居にあるのは
形代(かたしろ)という
レプリカのような剣であり
熱田神宮にある
草薙剣の御霊を依せている
といいます。
八剣宮は
皇居の神剣を祀っている
のでしょうか?
ホツマツタヱでは
三種の神器と草薙剣とは
別物とされています。
三種の神器は
ヤヱガキノツルギ(八重垣剣)
といいまして
8本ほど奉納された
といいます。
これが、
「八剣宮」の由来
かもしれませんね。
清雪門
鎌倉時代以降は
武家の信仰も篤かったようで
織田信長や徳川家康といった
ご歴々も参っていたようです。
また、
西門のあたりは
源頼朝の生誕地
ともいわれるようですね。
とにかく、
ひろいひろい境内なので
ぜひともまたゆっくりと
まわってみたいです。
所在地
熱田神宮
〒456-8585
愛知県名古屋市熱田区神宮1丁目1−1
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