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尾張めぐり2 津島神社

津島神社の本殿愛知

津島神社

全国に
約3,000社あるという

津島神社・天王社の
総本社とされている

津島(つしま)神社
です。

津島神社の鳥居

牛頭天王

かつては
津島牛頭天王社
(つしまごずてんのうしゃ)

ともいわれ

神仏習合によって生まれた
日本の神である

牛頭天王(ごずてんのう)
を祀っていたようです。

牛頭天王は

仏教においては
薬師如来(やくしにょらい)

神道においては
素戔嗚尊(すさのお)

とされたようですね。

津島神社の由緒

また、
民間信仰においては

蘇民将来(そみんしょうらい)
の説話に登場する

武塔神(むたふのかみ・むとうしん)
と同神とされたらしく

牛頭天王を祀る地では
「蘇民将来」とかかれた
厄病除けの護符を飾る風習が
おおくみられるようです。

祗園信仰

牛頭天王は、釈迦の聖地・
祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の守護神
といわれ

京都の
八坂(やさか)神社
牛頭天王を祀ることから

祗園社(ぎおんしゃ)
といわれていたようです。

牛頭天王を祀る
京都の八坂神社や

兵庫の
広峯(ひろみね)神社を
総本社とした信仰を

祗園(ぎおん)信仰
というようです。

津島信仰

祗園信仰のなかでも
津島神社を中心として
牛頭天王を祀る信仰

津島(つしま)信仰
というそうです。

ただ、津島信仰には
独自の信仰もみられるため

たんなる
祗園信仰の派生ではない
ともいわれるようですね。

津島信仰では
天王(てんのう)社
天王(てんのう)神社
と呼ぶらしく

津島神社も
「お天王さま」という
尊称があるようです。

津島神社の本殿

神仏習合の時代に
牛頭天王を祀っていた社は

明治時代の
神仏分離によって

素戔嗚尊(須佐之男神)
を祀る神社となった
ようですね。

祭神

津島神社の祭神は

建速須佐之男命
(たけはやすさのお)

となっています。

皇祖・天照大神の
弟にあたるかたです。

津島神社の本殿

境内の摂社では
建速須佐之男命の

荒魂(あらみたま)
を祀るという

荒御魂社(あらみたまのやしろ)
をはじめ

荒御魂社

和魂(にぎみたま)を祀る
和御魂社(にぎみたまのやしろ)

奇霊(くしみたま)を祀る
柏樹社(かしわぎのやしろ)

幸霊(さきみたま)を祀る
居森社(いもりしゃ)
がありました。

それぞれに
もとは別の社としての
由緒があるようです。

荒御魂社の由緒

荒御魂社はかつて
蛇毒神社といったらしく

八岐大蛇(やまたのおろち)の御霊
を祀っていたのだそうです。

和御魂社の由緒

和御魂社はかつて
蘇民社(そみんしゃ)といわれ
蘇民将来を祀っていたといいます。

蘇民将来の末裔にあたる
老姥が暮らした

姥が森にあったようです。

柏樹社

柏樹社はかつて
柏宮・柏社といったらしく

柏の古木があったことに
由来するといいます。

津島神社の旧鎮座地は
居森(いもり)にあった
ようですね。

居森社

居森社は、
津島神社の旧鎮座地
にあたるようですね。

蘇民将来の
末裔にあたる老姥が
霊鳩の託宣をうけて

祭神の御魂を
森のなかに居え祀った

ことから

居森(いもり)
というようですね。

疹社の由緒

末社の
疹社(はしかのやしろ)

須佐之男命和御魂を祀る
といいますが

ご神徳が
疹と疱瘡の守護
であることからも

もとは、牛頭天王や
蘇民将来に関わる社
なのでしょう。

神紋

ご神紋は
木瓜紋(もっこうもん)
となっています。

木瓜紋は
織田家の家紋でもあることから

織田信長の信仰も
厚かったらしく

のちには
豊臣家も崇敬したようです。

三つ石
三つ石の案内看板

創建

社伝によれば
須佐之男命が朝鮮半島から
日本に戻ってきたさい

須佐之男命の荒魂は
出雲国にとどまったけれど

須佐之男命の和魂は
第7代・
孝霊(こうれい)天皇45年
[紀元前245年?]に

九州の
対馬(つしま)に鎮まったのち

第29代・
欽明(きんめい)天皇元年の
西暦540年に

この地までやってきて
居森に鎮まったようです。

さらに、第52代・
嵯峨(さが)天皇の
弘仁9年(西暦810年)に
現在地に遷座して

正一位の神階と
日本総社の称号を
たまわったといいます。

津島神社の由緒

古事記では
「対馬(つしま)」は
「津島」と表記してあり

祭神が九州の
対馬に鎮まっていたことから

この地を津島神社と
呼ぶようになったようですね。

国玉神社

津島神社は
平安時代にまとめられた

延喜式神名帳には
載っていないといいます。

けれども、九州の
対馬で素戔嗚尊を祀るという

島大國魂(しまおおくにたま)神社
が元宮だとすれば

延喜式神名帳の
尾張国にのこっている

国玉(くにたま)神社
では?とも考えられるようです。

国玉神社では
須佐之男命の御子・
大己貴命(おほなむち)
を祀っていたといいます。

津島神社の相殿に
大穴牟遅命(おおなむち)
が祀られているのも
このためかもしれません。

彌五郎殿社

境内の南西には
ひときわ大きな摂社の

彌五郎殿社(やごろうでんしゃ)
があります。

津島神社の社家(紀氏)の
祖神にあたる

武内宿祢(たけうちのすくね)
を祀るといいます。

弥五郎殿社

南北朝時代に
四条畷の戦いでなくなった

津島神社の社家・
堀田彌五郎正泰が

生前に造替えしたことから
弥五郎殿社といわれたようですが

それ以前はここを
国玉(くにたま)神社
といっていたようです。

祭神に
大穴牟遅命がいるのも
このためのようですね。

弥五郎殿社の由緒

平安時代のはじめに
居森の地から遷ったものの

鎌倉時代のはじめには
国玉神社は荒廃していたらしく

国玉神社の
神宮寺の僧たちが

牛頭天王の信仰を
持ち込んで復興させた
ともいうようですね。

ところが、
牛頭天王の信仰によって
津島神社へと改称され

国玉神社は
社家の祖神を祀る
弥五郎殿社と改称され

国玉神社の名は
消えていったといいます。

稲荷社の木彫り

宝寿院

津島神社の北には
かつての神宮寺である

牛頭山(ごずさん)
宝寿院(ほうじゅいん)

がありました。

この地を訪れた
弘法大師・空海(くうかい)が

疫病に苦しむ人々のため
津島神社の隣に堂を設けて

牛頭天王の垂迹である
薬師如来像を奉ったのが
はじまりとされているそうです。

空海さま
ほんとうに行く先々に
いらっしゃいます。

空海像

ツシマ

津島神社は
ホツマツタヱの聖地
でもあります。

ホツマツタヱによれば
ヤマトタケ(日本武尊)
がなくなったあと

父である第12代・
景行(けいこう)天皇

ヤマトタケを弔うために
熱田神宮(あつたじんぐう)
の地へ向かったようです

みゆきなり おはりつしまに
いたるとき むらじむかえば
このごとく ともにおほまの
みやにいり みつからつくる
にぎてたて

ホツマツタヱ40アヤ
『
景行天皇の行幸が
尾張の津島に
いたったとき

尾張の連が
出迎えたので

景行天皇は
わが子に逢ったように
喜んでむかえいれると

ともに
オホマの宮(熱田神宮)
にはいって

みずからつくった
和幣をたてた
』


ホツマツタヱでは
父・景行天皇は
子・ヤマトタケとの別れを
とても惜しんでいたようです。

すると、

      そのよのゆめに
つしまもり しらいとりなる
やまとだけ

ホツマツタヱ40アヤ
『
その夜の夢で
津島の杜にいると

シライトリ(白鳥)となった
ヤマトタケがあらわれた
』

といいます。

聞けば、
ヤマトタケは

ソサノヲの御霊が
転生した姿であり


天照大神の孫・
ニニキネの活躍を

うらやんでしまった
ソサノヲの御霊は

もういちど
世に尽くしたいと願い

景行天皇の皇子・
ヤマトタケに宿った
というのでした。

みことうけ きつむけかえる
かみしづか まみえてほぞち
あつさたす たらちのめくみ
うまざるや

ホツマツタヱ40アヤ
『
父(景行天皇)の命をうけて
東西を平定するということは

ソサノヲの願いを
叶えるということでもあり

役目を終えたへその緒が
落ちるように(臍落・ほぞち)

役目を果たしたわたしは
この世を去ったのです。

父帝の命というのは
熱を冷ます
熟瓜(ほぞち)のように

ソサノヲの熱い思いを
鎮めることとなり

この国を静かに
治めることとなりました。

そのような父の恵みに
感謝こそすれ

父を厭うてこの世を
去ったわけではありません
』

といったようですね。

もしかすると、この
「瓜(ほぞち)」が

津島神社の
「木瓜」紋の由来
なのかもしれませんね。

この地は、景行天皇が
ヤマトタケを夢にみた地

といえるようです。

そして、これが
ホツマツタヱの後半を
編さんさせるきっかけ
とったようですね。

所在地

津島神社
〒496-0851
愛知県津島市神明町1

尾張めぐり3

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