ソサノヲ転生考
ホツマツタヱによれば
ヤマトタケ(日本武尊・倭建命)は
ソサノヲ(素戔嗚尊・須佐之男命)の
生まれ変わりだったといいます。
以前、
北近江めぐり7 イブキドヌシ
では
ソサノヲについて
書きましたが
今回は
ヤマトタケから
みてゆきます。
熱田太神宮御託宣記
平安時代の
熱田大神の由緒によれば
伊勢の斎宮である
倭姫命(やまとひめ)は
ヤマトタケに
神剣を渡すさいに
神がかると
「おまえの前世はソサノヲだ」
と告げたといいます。
また、
正応4年(1291年)に
熱田神宮が炎上したさい
焼け残った御記文には
ヤマトタケルの前世は
素戔嗚尊である
と書かれていたそうです。
さらに、
熱田太神宮御託宣記
(あつただいじんぐうごたくせんき)
によると
おなじく
正応4年(1291年)に
第89代・
後深草(ごふかくさ)天皇
の皇女である
久子(ひさこ・きゅうし)内親王
がなくなったそうですが
体温があったので
しばらくそのままにしていると
2日後に息を吹き返して
託宣を発したといいます。
語っていたのは
熱田大神(あつたおおかみ)
であり
かつて
日本武尊として化現した
素戔嗚尊だと名乗ると
社殿が荒れているのに
朝廷に顧みられない不満から
社殿に火を放ったのだ
と伝えたといいます。
ソサノヲとヤマトタケの因果は
当時から知られていただけでなく
熱田大神も
ヤマトタケ・ソサノヲである
とされていたようですね。
氷川信仰
ソサノオ(素戔嗚尊・須佐之男命)
を祀る信仰のひとつに
氷川信仰(ひかわしんこう)
があります。
祇園(ぎおん)信仰
では神仏習合の神・
牛頭天王(ごずてんのう)
を祀ったのに対して
氷川信仰は
出雲より勧請した
ソサノオを祀っていた
といいますから
氷川信仰のほうが
祗園信仰より
歴史が古いのでしょう。
ホツマツタヱによれば
ソサノヲの御霊は
ヒカワカミ(斐川神)
と称えられたそうですが
ヤマトタケは
東方遠征の帰路に
ソサノヲを
ヒカワカミとして祀った
といいます。
かみまつり ここにととまる
ホツマツタヱ 39アヤ
はなひこは わかさきみたま
しろしめし かわあひののに
おほみやお たててまつらす
ひかわかみ いくさうつはは
ちちふやま
ソサノヲは なくなった女御たちの 弔いとして 形見を祀るという ツカリアビキの祭祀を おこなったといいますが ヤマトタケもそれにならい 妃・オトタチバナ姫の御霊を 形見によって弔いました。 すると、この 祭祀をおこなううちに ヤマトタケこと諱(本名)・ 「ハナヒコ」は ソサノヲこと諱(本名)・ 「ハナキネ」の 生まれ変わりであることを 悟ってしまいました。 そこで、 川合いの野に 大宮を建てて ソサノヲの神霊を ヒカワカミ(氷川神・斐川神) として祀らせました。 さらに、 遠征でもちいた武器は 秩父山に納めました。
これが、
埼玉県の大宮にある
武蔵国一宮・
氷川(ひかわ)神社
とされるようですね。
氷川神社が
関東にしかない
といわれるのは
こうして
ヤマトタケが東征さいに
祀ったからのようです。
氷川と熱田
ソサノヲの「氷川」
に対して
ヤマトタケは「熱田」
といわれたそうです。
そうやって
ソサノヲとヤマトタケを
鏡写しに見てみますと
・荒くれ者で
猛々しい存在でありながら
・女装をして
敵を討つ奇策をろうして
・和歌の名手である
という点は
まったく同じです。
さらに、
対比させてみると
高天原を追放され
東へ西へとさすらった
ソサノヲと
大和を出て
東へ西へと遠征をした
ヤマトタケ――
逆剥ぎにした馬を投げて
機織り女(ハナコ)をあやめた
ソサノヲと
海に身を投げた妃・
オトタチバナ姫に命を救われた
ヤマトタケ――
山火事をおこして
母・イサナミをなくした
ソサノヲと
草を薙いで向い火をおこし
迫りくる火難を防いだ
ヤマトタケ――
両神(イサナギ・イサナミ)が
生理中に交わったために
荒んだ性格となった
ソサノヲと
生理中に交わることを
かたく拒んだ
ヤマトタケ――
こうしてみると
ソサノヲはヤマトタケに
転生することで
自分の因果だけでなく
親の因果も経験し
母・イサナミの愛も
理解しようとしていた
のかもしれません。
ここには、もちろん
イフキドヌシに救われた
ソサノヲと
イフキヌシにやられた
ヤマトタケ――
という対比もあります。
わがひかる
日本書紀によると
ヤマトタケが亡くなったのは
30歳だといいます。
津島の杜(森)で
父・景行天皇の夢枕に
あらわれたヤマトタケは
その生を振りかえり
ソサノヲの御霊を癒した意義と
感謝を伝えたそうです。
そうして、こんな歌を
詠ったといいます。
わがひかる はらみつにしき
ホツマツタヱ 40アヤ
あつたがみ もとつしまはに
おれるかひかわ
わたしの御霊・ソサノヲは 天孫・ニニキネの功績に 心うたれて ふたたび 国に尽くしたいと願って この世にやってまいりました。 その願いを すべて叶えることが できましたので わたしは この世を去ったのです。 こうして、いま 天照大神や ニニキネの暮らした ハラミ宮(サカオリ宮)を そのまま遷したような 素晴らしい新宮・ ニイハラ宮[熱田神宮]に わたしの御霊を 熱田神として 祀っていただき もう思い残すことは なにもありません。 わたしはふたたび 粗末な衣をまとっていた ソサノヲへもどり 出雲へと還って ヒカワカミとして鎮まり この地のひとびとを 守ることといたします。
「わがひかる」の
最初の5文字は
「るかひかわ」の
最後の5文字と
回文になっています。
これも、
ソサノヲとヤマトタケの
対比をあらわすようですね。
さらに、歌のなかには
「アツタ(熱田)」と
「ヒカワ(氷川)」の対比
「ハラミ(蓬莱)」
[富士山・ハラ宮]と
「ツシマ(津嶋)」
[ニイハラ宮・オホマ殿]
の対比
「ニシキ(錦)」
[栄華]と
「シマハ(縞布)」
[粗末]の対比
もあるようです。
この歌はほんとうに
難解複雑でまだまだほかにも
意味が込められていることでしょう。
アツタノリ
能褒野(のぼの)で
なくなるとき
ヤマトタケは
熱田宣り(あつたのり)
という
辞世の句を詠んだ
といいます。
いなむとき きつのしかじと
ホツマツタヱ 40アヤ
たらちねに つかえみてねど
さこくしろ かみのやてより
みちうけて うまれたのしむ
かえさにも いざなひちどる
かけはしお のぼりかすみの
たのしみお くもゐにまつと
ひとにこたえん
わたしはいよいよ この世を去るときを 迎えました。 東西を駆け 年月をかけて 父帝やこの国に つかえてきましたが これらすべて 神のはからいによる 人生だったのです。 ヤマトタケとして 生をうけることで わたしは わたしの願いをすべて 叶えることができました。 生を楽しんだ この魂の帰路は 生に誘われてたどってきた 架け橋の復路でしかありません。 このように 御霊というものは あの世とこの世を 浜の千鳥のように 行き来するものなのです。 身罷るときを迎え 霞んでいくわたしの意識も いまは満足で 心地よいものです。 けれど、どうか 后・ミヤズヒメには わたしは あの世とこの世のはざまで あなたを待っていると お伝えください。 ミヤズヒメが 尾張でわたしの帰りを 待っていたように わたしもミヤズヒメを 雲居で待ってます。
その死の間際に
生命や魂の片鱗に触れた
ヤマトタケは
とても満足そうに
最後のときを迎えた
ようですね。
検証ほつまつたゑ版
この記事は
ホツマツタヱの研究同人誌
検証・ほつまつたゑにも
改訂して掲載しています。
よろしければ
合わせてご覧くださいませ。
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