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京丹後めぐり11 船岡神社

船岡神社の鳥居京都

船岡神社

比沼麻奈為神社から
南東に800メートル
ほどゆくと

船岡(ふなおか)神社
があります。

ここは、
丹波道主(たにはみちぬし)
の邸宅跡
だといいます。

船岡神社の鳥居

丹波道主命

第10代・
崇神(すじん)天皇の世には

四道将軍(しどうしょうぐん)
[よつのみちのいくさのきみ]
といわれる

4人の皇族がいたそうです。

それぞれ
北陸・東海・西道・丹波
に派遣されたのですが

丹波に派遣されたのは
崇神天皇の甥にあたる

丹波道主命(たにはみちぬし)
というかたです。

丹波道主命の系図

ただ、古事記では
丹波国に派遣されたのは父・
彦坐王(ひこいますのみこ)
となっているようで

子の丹波道主命が
跡を継いだと考えられます。

どうやら丹波道主は
京丹後に祀られていた
豊受大神と深く関わるかた
のようです。

船岡神社の由緒

八乎止女

第10代・
崇神天皇の世には
おおくの厄災が起こったため

三種の神器のうち
天照大神の御霊が宿るという
八咫鏡(やたのかがみ)

宮中の外で祀るように
なったといいます。

八咫鏡には
崇神天皇の皇女・
豊鍬入姫命(とよすきいりひめ)
が奉斎していました。

はじめは
笠縫(かさぬい)の地
祀られていたようですが

やがて方々を
巡ることとなります。

豊鍬入姫命が年老いると
倭姫命(やまとひめ)
跡を継ぐこととなり

最後には
伊勢にたどり着いて
伊勢神宮(いせじんぐう)
の祭祀がはじまりました。

元伊勢というのは
伊勢にたどり着くまでに
八咫鏡が祀られた
聖地のことをいいます。

京丹後の
吉佐宮(よさのみや)

大和の笠縫の次に
八咫鏡が祀られた地
といわれています。

崇神天皇はまず
丹波道主を派遣して
丹波国を平定したのち


皇女の
豊鍬入姫命が訪れて
吉佐宮を営んだ

という流れのようですね。

さらに、第21代・
雄略(ゆうりゃく)天皇
時代になると

伊勢に祀られる
天照大神の御霊は

京丹後に祀られていた
豊受大神の御霊を呼びよせて

伊勢で祀るようになった
といいます。

豊受大神が祀られていたのは
比治乃眞名井(ひじのまない)
だといいますが

これはどうやら
吉佐宮とおなじ宮である
とも考えられそうです。

神宮関係の古文書・
大同本記(だいどうほんき)
にはこのようにあります。

今丹波國
與佐乃比治乃眞魚井坐
道主王子八乎止女乃
齋奉御饌都神止由居乃神乎
吾坐國欲止圧誨覺給支

大同本記逸文
いま、丹波国の
吉佐(よさ)の

比治(ひぢ)の
眞魚井(まない)にいる

丹波道主王の子の
八乎止女(やおとめ)の
斎奉する

御饌神(みけつかみ)の
豊受大神を

わたし(天照大神)のいる
(伊勢)国に呼びよせて欲しい
とおっしゃいました。

10代・崇神天皇の世に
比治乃眞魚井に奉斎していたのは

丹波道主の娘・
八乎止女(やおとめ)
だったようです。

比治乃眞魚井の
候補地は

眞名井(まない)神社
比沼麻奈為(ひぬまない)神社
豊受大(とようけだい)神社

などがありますが
丹波道主の居館跡が
ここにあったとすれば

比沼麻奈為神社を
比治乃眞魚井とする説にも
うなずけそうです。

船岡神社の参道

神饌の守

ホツマツタヱでは
京丹後といえば

豊受大神が
なくなった地
です。

また、
孫の天照大神も
豊受大神を慕って

最期はこの地に
埋葬されたといいます。

第10代・
崇神天皇の世には

トヨスキイリヒメ(豊鍬入姫命)
によって

天照大神の御霊は
カサヌイ(笠縫)
に祀られたようですが

その次にはやはり
京丹後の地へ
やってきたようです。

      むかしとよすき
かみのつげ みたまげかつぎ
よざにゆく このはしたては
かさぬいの ゑよりみやづの
まつにくも たなびきわたす

ホツマツタヱ 36アヤ
昔(崇神天皇の世に)
皇女のトヨスキイリヒメは

天照大神の御霊の
お告げにより

霊櫛笥(神輿)を担いで
吉佐(よさ・与謝)へゆきました。

この天橋立は
笠縫(カサヌイ)の上より
宮津(ミヤヅ)の松に
雲をたなびき渡すようでした。

天橋立(あまのはしだて)
を望む地として

傘松公園(かさまつこうえん)
が知られていますが

傘松という地名も
「笠」縫から宮津の
「松」にかかる雲のことで

ホツマツタヱから来ている
のかもしれません。

はじめは大和(奈良)の
笠縫の地に祀られていたのが

その次に
天照大神の墓所でもある
宮津の地に祀られた
ことを
描いているのでしょう。

ホツマツタヱによれば
吉佐宮の祭祀で

タニハミチウシ(丹波道主)は
御饌の守(みけのもり)
に就任したとあります。

神さまに供える
神饌を司る役職でしょうが

これは斎主に次ぐ
重要な役職であり

神主や禰宜よりも
上位であったようです。

とよけがみ あまてるかみお
まつらしむ みちうしみけの
かんめくみ よきみこゑたり

ホツマツタヱ36アヤ
(吉佐宮で)
豊受大神と天照大神を
ともに祀らせたところ

丹波道主は
御饌の守の功労により

神の恵みを受けて
良き御子を授かりました。

丹波道主の娘はのちに
第11代・
垂仁(すいにん)天皇の
后となります。

丹波道主が
天皇の外祖父となったのも

吉佐宮で
御饌の守を務めたから

なのかもしれません。

外宮の斎人

ホツマツタヱでは
豊受大神の御霊が
伊勢の地で祀られるのは

ヤマトヒメが
天照大神の御霊を
伊勢で祀ったときです。

ですから、
第21代・雄略天皇
の世ではなく

第11代・垂仁天皇
の世にはすでに

外宮の祭祀が
はじまっていた
ようです。

      かみもよろこび
つげいわく むかしわがすむ
さこくしろ しきなみよする
いせのみや ながくしつまり
まもるべし とよけのかみと
もろともぞ 

ホツマツタヱ 36アヤ
天照大神の御霊が
喜んで告げることには

「
昔わたしが住んでいた
サコクシロ(聖域)に

敷浪が寄せるように
夫婦が仲睦まじく
暮らすことを願って

伊勢(妹背)の宮を
築きなさい。

わたしはそこに
長く鎮まりますので

わたしの御霊を
手厚く守りなさい。

また(遺言のとおり)
伊勢においても

豊受大神とともに
鎮まることを望みます。

この告げによって
豊受大神の御霊は

第11代・
垂仁天皇の時代に

京丹後から伊勢へ
呼びよせられたといいます。

このときにもまた
丹波道主命が活躍したようです。

      きみよろこびて
にぎてなし とよけのかみえ
さおしかは みわのみけもち
いわひとは たにはみちうし

ホツマツタヱ 36アヤ
垂仁天皇は喜んで
和幣を成す(奉幣を行う?)と

(京丹後に鎮まる)
豊受大神の御霊を迎えるため

勅使として三輪の
ミケモチ(オオタタネコの子)と

斎人として
タニハミチウシ(丹波道主命)を
派遣して

豊受大神の御霊を
伊勢へと迎えました。

ホツマツタヱによれば
京丹後から伊勢への

豊受大神の遷座にも
丹波道主命が関わっていた
ようです。

ヒバスヒメ

丹波道主命の
5人の娘である

ヒハスヒメ
ヌハタニイリヒメ
マトノヒメ
アサミニイリヒメ
タケノヒメ


は第11代・
垂仁天皇の妃となります。

なかでも
ヒバスヒメ(日葉酢媛命)
は垂仁天皇の皇后となり

第12代・
景行(けいこう)天皇
を産むこととなります。

丹波道主命の娘たちが
垂仁天皇の妃として
迎えられたのは

丹波道主命の
兄妹にあたる

サホヒコ(狭穂彦王)
サホヒメ(狭穂姫命)

が引き起こした事件が
きっかけとなっています。

もともと
垂仁天皇の后は
サホヒメだったのですが

兄のサホヒコが
妹のサホヒメを
そそのかして

垂仁天皇の
命を狙ったといいます。

けれども、サホヒメは
垂仁天皇を討つことができず

垂仁天皇に兄の計略を
打ち明けてしまったそうです。

そこで垂仁天皇は
義兄にあたるサホヒコを
討ちにゆくのですが

后サホヒメもまた
兄を裏切ることができず

兄ともどもに
居城にこもってしまい
なくなったといいます。

なくなる直前に
サホヒメは

垂仁天皇との
あいだに産まれた子を
皇軍に託すと

垂仁天皇に
丹波道主の娘を新たな后として
迎えるように願った
そうです。

こうして、
垂仁天皇の妃として
丹波道主命の娘が
迎えらることとなりました。

サホヒメとサホヒコは
近親婚のような
禁忌をおかしていた
ともいわれています。

近親婚というのは
ホツマツタヱでは厳しく
取り締まられています。

府の岡

さて、船岡神社に
話をもどします。

神社があるのは
船岡山ともいわれる
小高い丘の上です。

丹波道主命の邸がある
というのは

国府のある岡でもあり
府の岡(ふのおか)から
船岡(ふなおか)になった
ともいわれるようです。

この岡は
古墳にもなっていて

あたりには
下山横穴基群があり

須恵器をはじめ
平瓶・甕・刀のほか

人骨なども
出土しているようです。

また、
良質の粘土が出るらしく

須恵器が焼かれた
窯跡もあるといいます。

船岡神社の横穴

天満神社

菅原道真公(すがわらのみちざね)
を祀るという

天満神社も
合わせ祀られています。

神社のある
五箇村出身の
寺田六助というものが

京の都で
菅原道真に仕えていた
といいますが

道真公が
太宰府に流されたさいに
形見として

「梅花石」
を賜ったといいます。

この石を
この地へ持ち帰って

はじめに祀ったのが
「天神が森」だといいます。

もともとは、
西隣の五箇小学校の地に
あったようですが

学校用地にあてるため
船岡神社の地に
遷座してきたようです。

船岡神社の由緒

神社の向かいには
楠木正成公(くすのきまさしげ)
の石像がありました。

「楠公父子別れの像」
というらしく

「桜井の別れ」を
描いているといいます。

楠公父子別れの石像

忠臣の像ともいわれる
楠公の姿はどこか

丹波道主とも
重なる気がしてきます。

明治天皇の歌碑

所在地

〒627-0052
京都府京丹後市峰山町五箇24−1

京丹後めぐり12

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京丹後めぐり
京都の北にある丹後半島周辺をめぐります。

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