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亀岡めぐり6 亀岡盆地

亀岡城の蓮京都

亀岡盆地

伝承によれば
亀岡(かめおか)盆地

太古のむかし
湖だったといいます。

千手寺からみる亀岡盆地

赤土がおおかったため
「丹の湖(にのうみ・丹の海)」
ともいわれたらしく

風で「波」がたつと
赤土がまきあげられ
「丹」色がまじったことから

「丹波(たんば)」
という国名になったようです。

蹴裂伝説

赤土のまじる湖が
肥沃な盆地となったのは

蹴裂(けりさき)伝説
によるといいます。

出雲大神宮(いずもだいじんぐう)
の祭神でもある
大国主命(おおくにぬし)

松尾大社(まつおたいしゃ)
の祭神でもある
大山咋神(おおやまくい)

のふたりが
たがいに力を合わせて

亀岡盆地と京都盆地をつなぐ
穂津峡(ほつきょう)を蹴り裂いて

亀岡盆地にたまっていた
丹の湖の水を抜いた
という伝説があるようです。

出雲族と秦氏

蹴裂伝説を
現実的にみるならば、

大国主命を祀りながら
亀岡盆地に暮らした
出雲出身の氏族

大山咋神を祀りながら
桂川(かつらがわ)流域に暮らした
秦(はた)氏という古代氏族が

手を組んで
開拓・灌漑事業をおこなった
ことをあらわすそうです。

どちらも、有力な氏族であり
飛鳥時代以前からすでに
この地に暮らしていたようですね。

こうして、
亀岡盆地の出雲族は
肥沃で広大な土地を手に入れ

桂川流域の秦氏は
田園を広げていったといいます。

治水をこなうことで
桂川の氾濫も防いだのでしょう。

痕跡地

亀岡盆地周辺には
事業の痕跡ともいうべき神社が
各所に残っているといいます。

徳(のり)神社では
談合を行い

請田(うけた)神社では
工事を請け負い

樫船(かしふね)神社では
樫の舟を作り

鍬山(すきやま)神社では
鍬を山のように作り

桑田(くわた)神社
から掘削をはじめ

餅籠(もちかご)神社[不明]の
籠で泥を運んだそうです。

また、
大井(おおい)神社には
丹の湖の名残として

境内には
丹色の池が残っている
といいます。

三穂津姫命

大国主命と大山咋神が
蹴り裂いた谷は

保津狭(ほづきょう)
保津川(ほづがわ)


といわれていますが
これは

出雲大神宮の祭神であり
大国主命の后とされる

三穂津姫命(みほつひめ)
の名からきているといいます。

三穂津姫は
出雲大神宮の地で

原初神・
国常立尊(くにとこたち)
磐座祭祀を行っていたようです。

国常立尊の御霊(磐座)は
1万年以上前からこの地に
鎮座していたらしく

「出雲の大神」とは
もとは国常立尊のこと
ともいうようです。

だとすれば、
出雲大神宮というのは

国常立尊(出雲大神)
を祀るとともに


国常立尊(出雲大神)
に奉斎した

三穂津姫命を祀る社
だったのでしょう。


三穂とは
3つの穂という意味
でもあり

豊饒の神・夫婦和合の神
だといいます。

水が抜けるまえの
丹の湖(亀岡盆地)の
地主神的な存在だったのでしょう。

崇神天皇

亀岡盆地にひろがる一族を
朝廷が治めるようになったのは

第10代・
祟神(すじん)天皇
のころのようですね。

出雲大神宮の境内にも
崇神天皇を祀る社がありました。

出雲大神宮の末社の崇神天皇社の由緒

第2代~第9代までの天皇は
欠史八代(けっしはちだい)といわれ
実在性が低いといわれるようですが

第10代となると
記述もおおく残っているため
考証の余地があるようですね。

西暦にあわせるならば
崇神天皇の治世は、およそ
紀元前1世紀ごろとされるようです。

歴史的にみるならば
秦氏が治水工事を行ったのは
4世紀ごろといわれるらしく


亀岡盆地の
丹の湖がなくなるのと

亀岡盆地を
朝廷が平定するのと

どちらがはやかったのかは
いまひとつわかりません。

倭彦王

日本書紀によれば

第25代・
武烈(ぶれつ)天皇
直系の血筋が途絶えたさい

第14代・
仲哀(ちゅうあい)天皇
にまでさかのぼって
末裔をさがしたところ

5代孫にあたる
倭彦王(やまとひこのおおきみ)が
亀岡盆地のあたりに隠れ住んでいた

といいます。

亀岡盆地とは、このように
秘密を隠しもった地なのかもしれません。

これが、およそ
西暦500年ごろのようです。

和銅年間

出雲大神宮は社殿の創建が
和銅2年(西暦709年)
とありました。

薭田野神社も創建は
和銅2年でした。

ほかにも、前述の
鍬山神社や請田神社も
和銅2年の創建です。

和銅年間(708年~715年)
といえば激動の時代です。

708年 『和同開珎』の鋳造開始
710年 『平城京』へ遷都
712年 『古事記』完成
713年 『風土記』編さんを命じる

すこし、さかのぼって
701年 『大宝律令』の制定
もありました。

法律ができて
お金ができて
首都が変わり

飛鳥時代から
奈良時代へとうつるという
時代の転換期でした。

ときの天皇は、
第43代・元明(げんめい)天皇
という女性です。

政界の実権は
藤原不比等(ふじわらのふひと)
が握っていたといいます。

大神狛麻呂

激動の時代である
和銅元年(708年)に

丹波守として
亀岡盆地に派遣されたのが

大神狛麻呂(おおみわのこままろ)
だったようです。

奈良の三輪山(みわやま)にある
大神(おおみわ)神社ゆかりの
氏族の出身です。

このかたが、亀岡盆地の
神社の整備をおこなったようです。

三輪氏・大神氏は
出雲ゆかりの氏族ですから

出雲大神宮の奉斎には、とくに
力をいれたのではないでしょうか?

713年には
丹波のうち北側5郡が
『丹後(たんご)国』
として切りはなされ

都に近い南側のみを
『丹波(たんば)国』
といったようです。

春日大社

和銅年間には
藤原氏の影響もあったようで

亀岡一帯は、奈良の
春日大社(かすがたいしゃ)
との縁も深いようでした。


春日大社は
710年に藤原不比等が
藤原家の氏神を祀った
ことに始まるといいます。

出雲大神宮にも
薭田野神社にも
春日社が祀られていました。

出雲大神宮の春日社の磐座
出雲大神宮の春日社の磐座

千手寺(せんじゅじ)では
弘法大師・空海(くうかい)

春日明神の案内をうけて
この地をたずねたといいます。

千手寺の由緒

このころになると
亀岡盆地も朝廷の影響が
色濃くなっていったようですね。

交通の要衝

亀岡盆地は
京都盆地へはいるため
交通の要衝でもあります。

山陰(さんいん)街道
出発点でもありますし

但馬国の和田山までは
篠山(ささやま)街道
主要ルートだったといいます。

これらの街道は
京都と出雲もむすぶ道
にもなっています。

京都盆地からすれば
西側諸国との窓口となるのが
亀岡盆地だったようです。

ちなみに、このころ
出雲大神宮に祀れている
大国主命の御霊を

島根の
杵築(きづき)大社
分祀したととから

出雲大社(いずもおおやしろ)
というようになったそうです。

これによって、出雲大神宮は
元出雲(もといずも)
といわれるようですね。

これも、朝廷の影響力を
すこしずつひろめていった
という話のひとつなのでしょうか?

大黒バーガー
亀岡名物・ダイコクバーガー
大国主命の「大国(おおくに)」が音読みされて
大黒天の「大黒(だいこく)」に転じている

亀山城

亀岡盆地といえば

戦国武将・
明智光秀(あけちみつひで)
の居城としてしられる

亀山城(かめやまじょう)
があります。

亀岡は城下町としても
栄えていたようですね。

亀岡の城下町の案内看板 明智光秀ゆかりの地をめぐる

かつては、亀岡は
亀山(かめやま)といわれていた
ようです。

三重県の亀山と区別するために
亀岡(かめおか)となったのは
明治2年(1869年)だといいますから

すごく最近のことなのですね。

丹波亀山城跡の案内看板

大正8年(1919年)には

大本教(おおもときょう)
の指導者で亀岡出身の
出口王仁三郎(でぐちおにざぶろう)
亀山城を買い取って

大本教の本部
天恩教(てんおんきょう)
としたようです。

亀山城の木

こちらも、とても
心地のよいところでした。

大本教の案内看板

こちらでも、
国常立大神など原初神を
第天主太神(おおもとすめおおかみ)
としてお祀りしているようです。

やはり、亀岡盆地と
国常立尊の関係は深い
といえるのかもしれませんね。

亀岡城の蓮

美しい亀岡の景色を
たっぷりと堪能いたしました。

亀岡めぐり ~終~

 
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