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京丹後めぐり2 智恩寺

智恩寺の山門京都

智恩寺

天橋立(あまのはしだて)
の南のたもとにある

智恩寺(ちおんじ)
です。

山号は
天橋山(てんきょうざん)
だそうです。

文殊菩薩(もんじゅぼさつ)
を祀る寺院であり

日本三文殊のひとつ
だといいます。

智恩寺の寺碑

文殊信仰

文殊菩薩は
智慧(ちえ)を司る仏

ただしくは
文殊師利菩薩(もんじゅしりぼさつ)
というそうです。

「智慧」とは
仏教用語であるらしく

般若(はんにゃ)
にも通じる言葉で

すべての事物や道理を見抜く力

無常・苦・無我の
三相(さんそう)を理解する力
であり

世事を見通す叡智
悟りへ至る重要な要素
であるようです。

智恩寺の智恵の輪
智恩寺の智恵の輪の由緒

こうした智慧の延長線上に
知恵(知識が優れている)
もあるらしく

「三人寄れば文殊の智恵」
という諺につながったといいます。

また、文殊菩薩は
非人(ひにん)救済などの
慈善事業(慈悲)も司るらしく

文殊会では貧者や病者に対する
布施も行われていたといいます。

智恩寺の文殊堂

文殊菩薩像の
一般的な造形は

獅子の背にある蓮華座に
足を組んで座り

右手には
智慧を象徴する宝剣をもち

左手には
経典を載せた青蓮華をもつ
といいます。

けれども、
智恩寺の本尊は

獅子の背に座っているものの
右手に蓮華をもつのみ

のようですね。

智恩寺の狛犬

獅子にまたがった姿は
インドから中国へと
旅した際の姿だといいます。

本堂では
善財童子(ぜんざいどうじ)
優闐王(うでんのう・ウダヤナ)

とともに祀られるようです。

秘仏であり年5日のみ
御開帳されるといいます。

智恩寺の狛犬

日本での
文殊菩薩を祀る信仰は

平安時代から本格的に
ひろまったといいます。

空海とゆかりの深い
勤操(ごんぞう)
文殊会を行っていたとか

延暦寺(えんりゃくじ)の
最澄(さいちょう)
本堂に接して
文殊堂を建てたようです。

創建

創建は
西暦808年(大同3年)であり

第51代・
平城(へいぜい)天皇の勅願寺
として創建されたといいます。

当初は
真言宗(しんごんしゅう)
の寺院だったそうですが

808年といえば
空海(くうかい)がようやく
唐から都に帰ってきたころで

日本の真言宗はまだ
ひらかれていないので

真言宗の寺院となったのは
すこし後のことなのでしょう。

智恩寺の本堂

それからおよそ
100年後にあたる

西暦904年(延喜4年)に
第60代・
醍醐(だいご)天皇より

「天橋山智恩寺」の号を
賜ったといいいます。

おそらくこのときには
文殊菩薩が本尊
となっていたのでしょう。

ですから、
文殊菩薩を祀る「智恩寺」
として創建は
904年となるようですね。

天橋立も
智恩寺の寺領の一部

だといいます。

智恩寺はまたの名を
切戸(きれと)の文殊
ともいうようですが

天橋立に渡るための
入口(小さな戸口)だから
でしょうか?

智恩寺の由緒

禅寺

創建後、中世までの歴史は
よくわからないといいます。

智恩寺の手水鉢
智恩寺の手水鉢の由緒

そののち、南北朝時代には
禅宗(ぜんしゅう)の寺院
になっていたといいます。

1500年ごろに
雪舟(せっしゅう)が描いた
『天橋立図』(国宝)には

現存する多宝塔や石仏の姿を
観ることができるようです。

智恩寺の多宝塔
智恩寺多宝塔の由緒

江戸時代には
丹後出身の僧・
別源宗調(べつげんそうちょう)
中興開山として迎えたらしく

以降は
臨済宗(りんざいしゅう)
妙心寺派(みょうしんじは)

の禅寺となったようです。

臨済宗とは
禅宗のひとつで

唐の禅僧・
臨済義玄(りんざいぎげん)
にはじまるといいます。

智恩寺の池

山門に掲げられた
海上禅叢(かいじょうぜんそう)
の扁額は

海上に聳そびえる禅の道場
を意味しているそうです。

智恩寺の山門
智恩寺の山門「黄金閣」。『海上禅叢』の文字もみえる。

1767年(明和4年)に
山門が再建されたさい

第117代・
後桜町(ごさくらまち)天皇から

黄金を賜ったことから
黄金閣(おうごんかく)
ともいうのだそうです。

九世戸縁起

智恩寺には
九世戸縁起(くせどえんぎ)
という古文書があり

智恩寺と天橋立の起源伝説
が残っているといいます。

智恩寺の九世戸縁起

室町時代中期の
臨済宗の僧・
清巌正徹(せいがんしょうてつ)
が書いたといわれ

説話的な脚色はあるものの
興味深い話もおおく


智恩寺では絵巻の全編が
絵で解説されていました。

智恩寺の九世戸縁起

天照大神のご両親にあたる
伊弉諾尊(いざなぎ)
伊弉冉尊(いざなみ)


おふたりで
島々を造られていた時代に

アラウミの大神(龍神)
がこの地で暴れていたので

智恩寺の九世戸縁起

中国の五台山から
龍神の導師でもある
文殊菩薩をよびよせた

といいます。

智恩寺の九世戸縁起

文殊菩薩は
千年の説法を続けたところ

龍神(アラウミの大神)たちは
みな改心をして

ひとびとを守る神になった
といいます。

そこで、
天橋の浦を
千歳の浦といい

説法の経を置いた地を
経ヶ岬といったようですね。

智恩寺の九世戸縁起

日本の神々は
文殊菩薩の持っていた
如意(棒?)に乗って
海に降りてきたといいます。

そのときに、
如意が浮かんで
天の浮橋となり

神々や文殊菩薩が
たどり着いた地を
宮津といったようです。

智恩寺の九世戸縁起

文殊菩薩が
宮津にとどまっていると

龍神たちが戒を授かって
文殊菩薩に弟子入りしたので

その場所を
戒岩寺(かいがんじ)
というようです。

また、文殊菩薩が
獅子で上陸された地を
獅子崎(しいざき・椎崎)
というようですね。

智恩寺の九世戸縁起


如意(棒?)を浮かべた
天の浮橋には

龍神たちが一夜のうちに
土を置いて島にしたといいます。

ここに、
天人が降ってくると
松明を灯しながら

千代の姫小松を
一夜のうちに植えたといいます。

そのうちに
夜が明けてきたので

松明の火を置いて
天に還っていったので

火を置いた地を
火置(日置)というようです。

智恩寺の九世戸縁起

原初神から
伊弉諾尊・伊弉諾尊までの
天神七代(てんじんしちだい)

伊弉諾尊・伊弉諾尊の子である
天照大神から

天照大神の皇子である
天忍穗耳尊(おしほみみ)までの
地神二代(ちじんにだい)

あわせて
九代のうちにできたので

この地を
九世戸(くせど)
というようです。

智恩寺の九世戸縁起

こののちに、
天橋立に文殊菩薩を
お祀りすることになったので

海には
龍神の龍燈

天には
天神の天燈

が献じられて

ひとびとは
松明で照らしながら
船を出して

文殊菩薩をお迎えした
といいます。

これが、
智恩寺の例大祭である
出船祭(でふねまつり)
のはじまりだそうです。

智恩寺の九世戸縁起

ホツマツタヱにのこる
記述と照らし合わせてみると
とても面白い伝承ですが

それは
京丹後めぐりのなかで
すこしずつ触れてゆきます。

とりあえず、それぞれの
地名由来の地図を載せておきます。

与謝宮

江戸時代の後期に
宮津藩の儒学者である
小林玄章(こばやしげんしょう)
がまとめた地誌である

宮津府志(みやづふし)
にはこんな記述があるといいます。

謹按一説に云
今文殊堂の地は
往古与謝の宮の旧蹤なり
文殊堂元と波路村にあり中古已来
今の地に移ると云々

又宮津古記の説に
別源禅師より

五代雪山和尚の代に
与謝の宮旧跡に残たる社を
橋立の洲崎に移し
橋立明神と神號を改めしとあり

宮津府志

智恩寺の地はかつて
元伊勢のひとつ
与謝宮(よさのみや)
があったというのです。

元伊勢とは
伊勢神宮創建以前に

倭姫命(やまとひめ)
天照大神の御霊を祀った
旧跡地だといわれていて

与謝の宮の地も
諸説あるようですが

どうやら
智恩寺もそのひとつ
のようですね。

智恩寺はもともと
波路(はじ)村にあったらしく

中世になって
現在地に遷ったともいうようです。

九世戸縁起にある
戒岩寺は波路村にあり

もしかすると、
智恩寺の元寺なのかもしれませんね。

境内

智恩寺の境内には
ほかにもたくさんの
見どころがあるのですが

すべてを
紹介しきれませんので

とりあえず
写真のみ載せておきます。

智恩寺の境内
暁雲閣(左)と鐘楼(右)
智恩寺の境内
石造宝篋印塔(和泉式部の歌塚)
智恩寺の山門
山門の裏側

本堂には数多くの
絵馬も奉納されていますし

すえひろ扇子みくじ
でも知られているようです。

また、
門前町では智恩寺名物・
智恵の餅(ちえのもち)
もいただけるといいます。

所在地

〒626-0001
京都府宮津市文珠466

京丹後めぐり3

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京都の北にある丹後半島周辺をめぐります。

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