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京丹後めぐり6 眞名井神社

真名井神社の参道京都

眞名井神社

籠(この)神社より
500メートルほど
北北東へゆくと

籠神社奥宮の
眞名井(まない)神社
があります。

719年(養老3年)に
遷座するまでは

籠神社の祭神が祀られていた
元宮でもあるといいます。

真名井神社とも
表記するようです。

真名井神社の鳥居

元伊勢

眞名井神社では
はるか神代の世から

匏宮(よさのみや)
が営まれており

豊受大神(とようけおおかみ)
を祀っていたといいます。

真名井神社の参道

第10代・
崇神(すじん)天皇の世には

天照大神の御霊は
皇居の外に祀られるようになり

崇神天皇の皇女である
豊鍬入姫命(とよすきいりひめ)
によって

大和国(奈良)の
笠縫(かさぬい)邑(むら)
奉斎されていたといいます。

倭姫命世紀によれば
天照大神の御霊はつぎに

丹波国にある
吉佐宮(よさのみや)
に遷されると

4年ほど
奉斎されたといいます。

また、
倭姫命世紀には

此歳豊宇介神天降坐奉御饗

倭姫命世紀
この年に
豊宇介神(とようけのかみ)
が天降って御饗を奉った

とありまして

天照大神の御霊が
吉佐宮にきたときに

食事を奉る神として
豊受大神が天から降りてきた

といわれるようです。

しかし、
真名井神社(籠神社)の
社伝からみるならば

もともと
豊受大神が祀られていた地に
天照大神の御霊が遷ってきた

という流れのようです。

真名井神社の参道

天照大神の御霊は
諸国をめぐったのち

さいごは伊勢内宮の地に
鎮まったといいます。

伊勢外宮の社伝である
止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)
によれば

第21代・
雄略(ゆうりゃく)天皇の夢枕に
天照大神の御霊があらわれて

丹波國比治乃真奈井尓坐
我御饌都神䓁由氣太神乎

我許欲止

群書類従『止由気宮儀式帳』
丹波国の
比治(ひぢ)[比沼(ひぬ)]の
真名井(まなゐ)に鎮座する

わたしの御饌都神(みけつかみ)・
䓁由気太神(とゆけのおおかみ)を
そばに置いてほしい

といわれたので
丹波国の真名井に祀られていた
豊受大神の御霊を
伊勢外宮の地に遷した

といいます。

真名井神社の参道

ですから、
眞名井神社(籠神社)は
伊勢内宮と伊勢外宮の
大元の宮であるとして

元伊勢(もといせ)
といわれるようですね。

真名井神社の参道

豊受大神の御霊が
伊勢に遷ってしまったあとは

社家である
海部(あまべ)氏の祖神を
祀っていた
ようです。

これが、現在の
籠神社の祭神へと
つながってゆくことから

真名井神社は
籠神社の元宮でもあるようです。

この地の
与謝野という地名や

与謝の海という
天橋立の東側の海の名も

「匏」宮・「吉佐」宮の
「よさ」からきているらしく

真名井神社のことを
与謝宮(よさのみや)
ともいうようです。

真名井神社の石碑

匏(よさ)とは
匏(ひさご)のことで

瓢箪(ひょうたん)
を意味するといいます。

瓢箪は古来より
器や祭具としても
活用されていたらしく

匏(よさ)というのは
褒め言葉でもあるといいます。

また、当地では
「よさ」ではなく、古くは
「よざ」といっていたようですね。

「よせあみ(寄網)」という
入り江での漁法が

「よさみ」となり
「よさ」へ転じたともいうようです。

真名井神社の社号碑の裏
『匏宮大神宮』の社号碑の裏側

ほかには、
天橋立(あまのはしだて)伝承
にもあるように

天照大神の父・イサナギが
天界のぼるため
この地に梯子を掛けたさい

眠っているあいだに
梯子が倒れてしまったことを
『久志備(くしび)』
霊妙であると感じたことから

この浜を
『久志備(くしび)の浜』
とよんだそうですが

そこから、当社のことを
久志浜宮(くしのはまみや)
ともいったようですね。

もしかすると、
天界に掛けようとした
橋や梯子というのは

ジャックと豆の木のように
匏(ひさご)を成長させたもの
だったのかもしれません。

匏とおなじ意味で
天吉葛(あめのよさづら)宮
の社名もあるようです。

天吉葛神といえば
トヨウケビメ(豊受大神?)とも
関係性が深いといわれるようですね。

真名井神社の社号碑
『眞名井神社』の社号碑の裏側

ほかにも

比沼真名井(ひぬまない)宮
久志日沼前(くしひぬま?)大神宮
豊受大神宮

などなど
さまざまな社名が
あったようです。

真名井神社の社号碑の裏
『外宮大元宮吉佐宮』社号碑の裏側

豊受大神

眞名井神社のご祭神は
豊受大神(とようけおおかみ)
だといいます。

また、
眞名井神社では
豊受大神の別名として

  • 天御中主神(あめのみなかぬし)
  • 國常立命(くにとこたち)
  • 御饌津神(みけつかみ)

もあげられるようです。

天御中主神や
國常立命といえば
原初神であり

この世に
はじめてあらわれた神
とされているかたがたです。

おもしろいことに
ホツマツタヱにおいても

豊受大神は
ミナカヌシ(クニトコタチ)が
転生した存在
といわれています。

真名井神社の本殿

豊受大神といえば
伊勢外宮の祭神として
よく知られているかたですが

この神がいったい
どういう存在なのか

なぜ、伊勢において
内宮に祀られる皇祖・
天照大神とならびたつ存在として
祀られているのかなど

古記事・日本書紀では
よくわからないといいます。

日本書紀には記述がなく
古事記にはわずか2か所に
登場するだけのようです。

次和久產巢日神
此神之子謂豐宇氣毘賣神

古事記 上巻

登由宇氣神
此者坐外宮之度相神者也

古事記 上巻

しかも、このように
名まえがすこし違います。

イサナミの
尿(ゆまり)から生まれた
ワクムスヒの子としては

トヨウケビメという
女神の名でかかれていますが

天孫降臨のさいに
降りてきた神のひとりとしては
トユウケ神となっていまして

伊勢の外宮で祀られている神
という説明だけがついています。

こうした記述から
豊受大神は女神であり
豊穣(穀物)に関係ある?
とされているようですが

なぜ、
外宮で祀られているのか
どんな神徳があるのかは
わかりません。

そこで、のちの世に
止由気宮儀式帳や
倭姫命世紀などで

天照大神の食事を司る
御饌津神(みけつかみ)である
としたようですね。

真名井神社の磐

ところが、
ホツマツタヱによれば

豊受大神は男神であり
天照大神の母方(イサナミ)の
祖父
にあたるかたで

天照大神に
帝王教育をほどこし

この国を再建した
偉大なかたであったと
あるようです。

そして、天照大神もまた
豊受大神を心から慕っており

天照大神がなくなったさいは
豊受大神の墓所にともにはいった
といいます。

真名井神社の周辺の景色

タカミムスビ

ホツマツタヱからみる
豊受大神の最大の功績は

国家断絶を防いで
国の統治を繋いだこと
ではないでしょうか?

ホツマツタヱによれば
この国はまず原初神・
クニトコタチ(国常立尊)
が地上におりたち

その8人の皇子である
ト・ホ・カ・ミ・ヱ・ヒ・タ・メ
の尊(かみ)に継がれたといいます。

そのうち、
トの尊が本家となって代々
統治を継いでいたようですが

あるとき、
本家に世継ぎが産まれず
トの尊の血が断絶したといいます。

分家の長である
タカミムスビという
役職に就いていた

豊受大神は
みずからの娘である
イサナミと

おなじく分家で遠縁の
イサナギを結んで

国の統治を継がせることで
国家を建て直したそうです。

また、
イサナギ・イサナミが
結ばれたあとも

嫡男に恵まれるようにと
山籠もりをおこない

8千回におよぶ禊をして
祈りをささげたといいます。

これが、結願して
太陽の化身ともいうべき
天照大神が生まれたそうです。

すると今度は、
天照大神の養育をおこない

聖人君主となるような
帝王教育をほどこしたようですね。

この国の
根幹に関わったかた

だったからこそ

内宮の天照大神とともに
外宮で祀られているようですね。

真名井神社の由緒

タカミムスビとは
ヒタカミ(日高見)国という
東北地方を治める

分家一族の首長の称号
だったようです。

原初神・クニヨコタチより
ヒタカミの地では
暦の木を管理していたこともあり

本家のつぎに
政(政治・祭事)に
長けた一族だった
ようです。

そんなかたですから
トの血が断絶して
イサナギ・イサナミが
継ぐまでの空白期間は

暫定的に
豊受大神が政治をにない

国をつないだといいます。

さらには、
地球環境の変化から
ひとびとを苦しめていた

食料難の問題をも
解決させた
といわれていて

豊受大神というのは
ケ(食)を大いに豊かにした神
という称え名だといいます。

マナヰ

5代・タカミムスビとして
東北を治めていた豊受大神は

晩年は、ここ
ミヤヅ(宮津)
暮らしていたといいます。

天照大神が統治者となって
都をひらいたのちのこと

サホコチタル国[山陰地方]
がとても荒れていたそうです。

そこで、
山陰地方の建て直しのために

老齢となった豊受大神は
タカミムスビを辞すると

サホコチタルの政庁があった
ミヤヅ(宮津)の地に
着任したといいます。

ミヤヅの政庁があったのは
マナヰ(真名井)
マナヰノハラ(真名井原)
アマノマナヰ(天真名井)
いわれる場所だったようです。

真名井神社の御神水の案内板

豊受大神は、この地でも
手腕を存分にふるって
この地を治めていったようです。

そして、
年老いた豊受大神はそのまま
この地で最期を迎えたといいます。

なくなるさい、豊受大神は
奥義(みちのく)を教えるため

天照大神をこの地に
呼びよせたといいます。

そうして、
天照大神は奥義を授かると
豊受大神のあとをついで

みずからこの地にとどまり
しばらく(10年?)ここで
政治を執っていたといいます。

また、晩年
天照大神もなくなると
豊受大神が眠るこの地に
ともに入ったといいます。

ですから、
ホツマツタヱによれば
この地は

天照大神や豊受大神が
政治を執った地
であり

天照大神や豊受大神が
眠る聖地
でもあるといいます。

真名井神社の由緒

一般的には
「真名井」といえば

とても清らかな水が湧く
井戸のことや

清浄な水につけられる
最大級の敬称だそうですが

ホツマツタヱでいう
「マナヰ」という言葉には

天照大神が豊受大神から
奥義を学(まな)ぶために
居(ゐ)た場所という意味
もこめられているようです。

奥宮 眞名井神社|丹後一宮 元伊勢 籠神社(このじんじゃ)  奥宮 真名井神社(まないじんじゃ)
御祭神 磐座主座 豊受大神とようけおおかみ 産業、衣食住の神様。 月神の一面をお持ちであり、天御中主神と同神であると伝えられる。 御神徳 五穀豊穣 衣食住守護・諸業繁栄 相殿 罔象女命みづはのめのみこと 彦火火出見尊ひこ | 丹後一宮 元伊勢 籠神社(このじんじゃ)  奥宮 真名井神社(まないじんじゃ)

参道の階段よりさきは
撮影禁止となっていますので
真名井神社のHPから
ご覧いただけたらと思います。

真名井神社の本殿裏には
古代祭祀の形態をのこす
磐座(いわくら)
が祀られていまして

主座(右側)に
豊受大神を祀り

西座(左側)に
天照大神
伊射奈岐大神(いざなぎ)
伊射奈美大神(いざなみ)

を祀るようですね。

もしかすると、ここが
ミヤヅの政庁があった地や
豊受大神や天照大神が
暮らした宮があった地や
おふたりが眠る地
なのかもしれませんね。

ただ、
ホツマツタヱにのこる
マナヰの候補地は

ほかにもありますので
のちのちご紹介してゆきます。

ヨザ

さらに、
「よざ(与謝)」というのも

天照大神と豊受大神を
寄(よ)せ合(あ)わせ祀った場所
という意味があるのだそうです。

第10代・
崇神(すじん)天皇の世には

皇女・
トヨスキイリヒメ(豊鍬入姫命)が
天照大神の御霊を祀ったといいますが

ホツマツタヱには
こうあります。

      むかしとよすき
かみのつげ みたまげかづき
よざにゆく このはしたては
かさぬいの ゑよりみやづの
まつにくも たなびきわたす

ホツマツタヱ 36アヤ
むかし、
トヨスキイリヒメは
天照大神のお告げによって

天照大神の御霊を遷した
御霊笥(みたまげ)[神輿]
を担いで(掲げて)
与謝の地までゆきました。

この縁の
由来というのは

天照大神の御霊が
縁故の地まで導かれた
からであり

これまで祀られていた
大和のカサヌイ邑から

ミヤヅにまで
長い雲がたなびくように

ミヤヅの江にも
対岸の松と
笠(傘)を渡すような

天橋立が浮かんできた
からでもあります。

おそらく、このとき
天橋立が急成長して

はっきりと姿をあらわす
という瑞兆があったのでしょう。

地震によるものか
環境の変化によるのか
わかりませんが

これがきっかけとなった
ことも詠み込まれている
ようですね。

与謝・橋立・宮津・傘松
がここにみえるのも
とても面白いことです。

ホツマツタヱにおいても
天照大神の御霊を祀った

元伊勢・
ヨサの宮であることに
間違いはないようです。

天香語山

真名井神社の背後の山も
ご神体山であり

藤岡山(ふじおかやま)
天香語山(あめのかごやま)
などというようですね。

真名井神社の社号碑

藤岡山といえば
伊勢外宮のある山の名と
おなじでもあります。

また、ホツマツタヱで
カグヤマ(天香山)といえば
富士山のことですから

そこから転じて
ご神体山を表す言葉
でもあるようですね。

ですが、
「カグ」ヤマではなくて
「カゴ」ヤマとなっているのは

「籠(この)」神社の
「籠(かご)」の字にも
掛けてあるからでしょうか?

真名井神社の石碑

境内地には
本殿裏の磐座とは別に

奥座の磐座があり
盬土老翁(しおつちのおじ)
が祀られているといいます。

ホツマツタヱによれば
兄弟喧嘩(権力争い)で
途方に暮れていた

山幸彦(やまさちひこ)
[彦火火出見尊]

「カゴ」シマ(鹿児島)まで
導いたかた
でもあります。

竹で編んだ籠の船で
大海宮にいったのではなく

目無しかた網を載せた船で
鹿児島までいったようですね。

これが、
鵜戸神宮や鹿児島神宮
へつながるようです。

ですから、そんな
「カゴ」にかけて
「カゴ」ヤマといっている
のではないでしょうか?

また、これが
カゴヤマ(天香語山命)
という神のことだとすれば

籠神社の祭神・
天火明命(あめのほあかり)こと
クシタマホノアカリの義兄
[后・アメミチヒメの兄]
にあたるようですね。

クシタマホノアカリは
カゴヤマの子・
タカクラシタ(高倉下命)を
養子にもらうのですが、、、

これが、この地にどう
関係するのかはわかりません。

籠(かご)でいえば
籠目(かごめ)の紋を
六芒星とみたてて

日本とユダヤが
同じ祖先であるという
日ユ同祖論の題材にも
なるようですね。

真名井神社の石碑

境内地より出土した
こちらの石碑には

三つ巴の紋が
はめ込まれていますが

もともとはここに
籠目の紋があったようです。

そこから、
日ユ同祖論と結びつけて

「真名井(まない)」も
「マナの壺」から来ている
といわれたりするようです。

マナの壺の形は
前方後円墳と似ている
というのも興味深くはあります。

とはいえ、
ホツマツタヱの史観からすると
すべての発祥は日本となるので

ユダヤの氏族も出戻りである
となるようですね。

このあたりも、
いろんな説を取り入れては
想像をめぐらせて楽しんでいます。

葵祭

さて、
さいごに気になったのは、
階段脇の藤棚です。

籠神社・真名井神社では
2500年以上の歴史がある
丹後最古の祭礼・

葵祭(あおいまつり)
がおこなわれるといいます。

もともとは、
藤祭(ふじまつり)
といっていたようですね。

神様が年に一度、
御生れ(みあれ)=再生する
儀式なのだそうです。

真名井神社への案内看板

葵祭といえば
京都の賀茂(かも)神社
が有名ですが

この地では
豊受大神ゆかりの
藤の花を髪挿すといいます。

藤といえば、
ふじ、富士、不死
とも変換されますから

天照大神や豊受大神を
ともに称えているのかもしれませんね。

真名井神社の山林

境内地は、すこし張りつめた
男性的な空気を感じましたが

懐はひろく
袂をこころよく開いて下さった
という気がしました。

神代の大いなる神々の
遺徳に触れられるのが

真名井神社さんの魅力
なのかもしれません。

所在地

〒629-2232
京都府宮津市中野905

京丹後めぐり7

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京丹後めぐり
京都の北にある丹後半島周辺をめぐります。

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