引っ越し作業中

京丹後めぐり5 籠神社

籠神社の社号碑と鳥居京都

籠神社

天橋立(あまのはしだて)
の北岸には

丹後国一宮
籠(この)神社
があります。

一説によれば
丹後国の総社(そうしゃ)
も兼ねていたようですね。

総社とは
国内の諸社祭神
すべてをお祀りして

国司が奉斎する神社
のことをいうそうです。

籠神社の旗

山陰道一之大社

平安時代にまとめられた
延喜式神名帳では
名神大社(みょうじんたいしゃ)
であり

明治時代に定められた
旧社格では
国幣中社(こくへいちゅうしゃ)
であり

現在では
別表神社(べっぴょうじんじゃ)
に選定されていますから

古来より重要な神社
とされてきたようです。

また、
延喜式の時代には

山陰道8か国で唯一の
官幣大社だったらしく

山陰道一之大社
と号しているようです。

籠神社の社号碑と鳥居

元伊勢

社伝によれば
はるか神代の世から

当社の奥宮にあたる
眞名井原(まないはら)
の地では

匏宮(よさのみや)
が営まれて

豊受大神(とようけおおかみ)
を祀っていたといいます。

籠神社の狛犬

その縁によって
第10代・
崇神(すじん)天皇の世に

大和国(奈良)の
笠縫(かさぬい)邑に
奉斎されていた

天照大神の御霊を
この地に遷しますと

宮の名も
吉佐宮(よさのみや)
としまして

4年ほど、両神をともに
お祀りしていたようです。

籠神社の狛犬
籠神社の狛犬の由緒

その後、
天照大神の御霊は
諸国をめぐったのちに

第11代・
垂仁(すいにん)天皇の世に
伊勢内宮の地に
奉斎されたといいます。

また、当地に祀られていた
豊受大神の御霊は

第21代・
雄略(ゆうりゃく)天皇の世に
伊勢外宮の地に
お遷りになったそうです。

それにより、
伊勢内宮・伊勢外宮の
元宮である
ということで

元伊勢(もといせ)
といわれるようですね。

籠神社の鳥居

与謝野(よさの)
という地名や

与謝海(よさのうみ)
という天橋立の東側の
海の名も

「匏」宮・「吉佐」宮の
「よさ」からきているといいます。

天橋立の地図

冠島

匏宮・吉佐宮の地は
眞名井原といわれたことから

現在は奥宮として
真名井(まない)神社
が鎮座しています。

真名井神社の案内

現在の
籠神社の地に遷座したのは

奈良時代の
養老3年(719年)
だといわれていますが

これには
701年に丹後をおそった
大宝(たいほう)地震
が関係しているようです。

このとき、籠神社の
海の奥宮ともいわれる

冠島(かんむりじま)
は山頂部をのこして
沈んでしまったと

『丹後風土記残欠』
にあるようです。

冠島周辺の海底からは
石造の遺跡も発見されており

縄文・弥生時代から
栄えていたようです。

また、冠島は
常世島(とこよじま)
竜宮島(りゅうぐうじま)

ともいわれています。

これは、
京丹後に色濃くのこる
浦島(うらしま)伝説
とも深い関わりがあるようです。

与謝の海の風景
与謝海から、冠島(中央奥)を眺める

奥宮の真名井神社を
上宮(じょうぐう?うえみや?)

里宮の籠神社を
下宮(げぐう?しもみや?)
というようですね。

「籠」神社とかいて
「この」と呼ぶのは

「籠める」の「こ」に
助詞の「の」で
「この」だそうです。

けれども、これは
奥宮・真名井神社という

「親」に対しての
「子の」宮という意味も
ありそうですね。

社伝によれば
当社のご祭神が

竹で編んだ
「籠」舟にのって

海神の宮(龍宮・常世)
まで行かれたという
故事によるのだといいます。

また、一説には

飛鳥時代の
白鳳11年(671年)に
当社のご祭神が

籠にのって
雪のなかにあらわれたという
伝承によるともいうようです。

籠神社境内の木

彦火明命

籠神社のご祭神は
彦火明命(ひこほあかり)
だといいます。

天照大神の
孫にあたるかたで

瓊瓊杵尊(ににぎ・ニニキネ)の
兄だといいます。

籠神社の由緒

ご祭神は、奥宮の地にて
豊受大神の祭祀をはじめたかた
なのだそうです。

また、
天祖(父・オシホミミ?)から
息津鏡(おきつかがみ)
邊津鏡(はつかがみ)

の神宝をたまわり

海の奥宮である
冠島に降臨されたといわれ

丹後・丹波地方に
養蚕や稲作をひろめて
開拓した
ともいうようですね。

ほかにも
・天火明命(あめのほあかり)
・天照御魂神(あまてるみたまかみ)
・天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかり)
・饒速日命(にぎはやひ)

という別名があるようですね。

籠神社の由緒

主祭神は
彦火明命ですが

相殿には

  • 豊受大神
  • 天照大神
  • 海神(わたつみ)
  • 天水分神(あめのみくまり)

が祀られているといいます。

元伊勢ゆかりの
豊受大神・天照大神
にくわえて

冠島ゆかりの
海神

天橋立ゆかりの
天水分神

といったところでしょうか?

籠神社の境内

海部氏

主祭神である
彦火明命は

籠神社の
宮司を歴任してきた
社家であり

丹波国造家でもある
海部(あまべ)氏
の祖神にあたるといいます。

古代の海洋を司った
海人(あま)族を統括
していた氏族
ともいわれ

日本最古の系図にして
国宝に指定されている
『海部氏系図』
も残っているといいます。

また、祭神が
天祖(父・オシホミミ?)
からいただいたという

息津鏡(おきつかがみ)
邊津鏡(へつかがみ)


という2枚の鏡も
神宝として残っているといいます。

籠神社の神木と神石

兵庫県西宮市の
神呪寺(かんのうじ)
をひらいたという

如意尼(にょいに)
[真名井御前]も
海部氏の出身だそうです。

五色の座玉

社殿の様式は
伊勢神宮とおなじく
神明造りであり

鰹木(かつおぎ)は
10本

千木(ちぎ)は
内そぎになっている
といいます。

さらに、
心御柱(しんのみはしら)
棟持柱(むなもちばしら)
などもあるそうです。

とくに、
五色の座玉(すえたま)
という

青(緑)、黄、赤、白、黒の玉が
高欄の上に据えられているのは

伊勢神宮以外には
籠神社にしかないもの
だといいます。

籠神社本殿の五色の座玉
五色の座玉の由緒
五色の座玉の由緒

倭宿禰命像

境内には
海部氏の祖先の
遺徳をしのぶためなのか

亀の甲羅に乗った
倭宿禰命(やまとのすくね)
の神像がありました。

倭宿禰命の神像

海部氏系図では
祭神・彦火明命からつづく

海部家の
4代目にあたるかたであり

初代・神武天皇
東征に参加したかた
だといいます。

またの名を
・椎根津彦(しいねづひこ)
・珍彦(うずひこ)

というかたで

神武天皇の一行が
明石海峡をとおるころ

亀にのってあらわれて
一行の船を先導した功労者
だといいます。

その後も、
神武天皇のもとで
功績あげたようですね。

倭宿禰命の説明書き

恵美須神社

さて、ここからがすこし
話のややこしいところです。

境内には、摂社・
恵美須(えびす)神社
が祀られています。

エビス神といえば
蛭子神や事代主神
がおおいのですが

ここでは、
海の向こうからやってくる
漂着神としての

戎(えびす・江靈住)
であるらしく

主祭神は
彦火火出命(ひこほほでみ)
となっていました。

籠神社摂社・恵美寿神社
籠神社摂社・恵美寿神社の由緒

ご由緒には
大化以前の籠宮の
主祭神だった
とあります。

豊受大神の御霊が
伊勢外宮に遷ってから
飛鳥時代の大化までは

彦火明命ではなく
彦火火出見命が祀られていた

というようです。

籠神社摂社・恵美寿神社

彦火火出兄命といえば
天照大神の曾孫にあたり

籠神社の現祭神・
彦火明命とは

伯父と甥の関係
にあたります。

甥の
彦火火出兄命は

またの名を
山幸彦(やまさちひこ)
ともいいまして

兄弟喧嘩のすえに
海神の宮へいって

海神の娘・
豊玉姫(とよたまひめ)
と結ばれたかたです。

籠神社の境内の風景

ですから、
竹で編んだ「籠」舟にのって
海神の宮までいったのも

白鳳11年(671年)に
「籠」に乗ってあらわれたのも

彦火明命ではなく
彦火火出見命だったようです。

籠神社の「籠」の字は
彦火火出見命によるために

籠神社では、あえて
彦火明命と彦火火出兄命の
区別をあいまいにしているようです。

これも、この地にのこる
浦島伝説との関係によるのでしょう。

ミヤヅ

ホツマツタヱをみれば
この地の由来やご祭神が
よくわかります。

そもそも、ホツマツタヱでは
原初神・クニトコタチよりすでに
地上で暮らしていまして

神代の時代から
国ごとの分割統治を
おこなっていたといいます。

この地は
ミヤヅ(宮津)
といわれ

山陰地方ことである
サホコ・チタル国を治める
地方政庁がおかれていた

といいます。

籠神社が
『山陰道一之大社』
と号するのも

神代の世は
ここに政庁があったから
ではないでしょうか?

ホツマツタヱによれば
サホコ・チタルの国が荒れたさい

豊受大神がミヤヅに着任して
サホコ・チタル国を治めた

といいます。

そうして、そのまま
豊受大神はこの地で
なくなった
のだそうです。

天照大神は
豊受大神を弔うとともに

しばし、
ミヤヅにとどまって
国を治めたといいます。

さらには、晩年
天照大神は時期を悟ると
豊受大神を慕って

天照大神もまた
豊受大神の眠るこの地で

ともに眠ったといいます。

当社が、
元伊勢といわれ

第10代天皇の世に
天照大神の御霊が祀られた
というのものここが

天照大神や豊受大神が
眠る聖地
であったから
なのかもしれません。

真名井稲荷の鳥居

クシタマホノアカリ

籠神社のご祭神・
彦火明命は

ホツマツタヱでいうと
クシタマホノアカリ(櫛玉火明命)
となります。

天照大神の孫であり
ニニキネ(瓊瓊杵尊)の兄
にあたるかたです。

このかたは、
大和の地に都をひらいた
といわれるかたで

当初はこちらが
長男として国を継ぐ本家

だったようです。

しかしながら、
弟・ニニキネのほうも
優秀な人材だったので

ニニキネも
都をひらいたため

二朝並立の時代が
はじまった
ようです。

籠神社の狛犬

クシタマホノアカリは
継ぎ子がないまま
なくなってしまったので

弟・ニニキネの長男
ホノアカリ(火明命)が
養子となって

大和の都を継いだといいます。

この、ホノアカリの子が
ニギハヤヒ(饒速日命)
となりまして

二朝の対立を
深めてしまいます。

そこで、
ニニキネの曾孫にあたる
イハワレヒコが東征して

ニギハヤヒ朝廷をくだし
二朝を統一して

初代・神武天皇
となったというのが

ホツマツタヱがのこす
歴史のようですね。

詳しくは、
ホツマツタヱ全40アヤ動画
ご覧いただけたらと思います。

さらに、海部氏は
尾張国造とも関係がある
といわれるようですが

尾張氏考でも
みてみたように

ホツマツタヱでは
ホノアカリの子孫が
尾張氏となっています。

尾張氏と葛城氏の系図
ホツマツタヱによる尾張氏系図

ウツヒコ

ホツマツタヱによれば
ニニキネ(瓊瓊杵尊)には
3人の子がいまして

それぞれ

長男・ホノアカリ(ムメヒト)
次男・ホノススミ(サクラギ)
三男・ヒコホオデミ(ウツキネ)

という名だったといいます。

長男・ホノアカリは
大和の都を継いだ
というのは先述のとおりです。

次男・ホノススミとは
海幸彦(うみさちひこ)
のことであり

三男・ヒコホオデミとは
籠神社の旧祭神ともいわれる
彦火火出見命のことで
山幸彦(やまさちひこ)
ともいいます。

次男と三男のあいだで
権力争いのような
兄弟喧嘩がおこり

結局は、
三男・ヒコホオデミが
父・ニニキネの世を
継ぐこととなると

次男・海幸彦はそれに
協力したといいます。

この次男の
ホノススミ(サクラギ)[海幸彦]
には子がいたというのですが

それが、
ウツヒコ(珍彦)
というようです。

倭宿禰命の神像

海幸彦の子である
ウツヒコ(珍彦)

神武天皇に同行した
倭宿禰命(珍彦)

同一人物かどうかは
諸説ある
ようですが

籠神社には
倭宿禰命の神像も
あることから

ニニキネの次男・
サクラギ[海幸彦]の子
ウツヒコにはじまる氏族が
海部氏ではないか?

とも考えてしまいます。

アマテル系図
天照大神の系図

サクラギ[海幸彦]は
琵琶湖の白髭神社の地にて

琵琶湖周辺の
治世や水運を司っていた
ようですが

その子・ウツヒコが
ミヤヅの政庁を治める
国造となったというような

語られていない歴史も
あるのかもしれません。

真名井神社への案内看板

ということで、つぎは
奥宮・真名井神社へと
向かいます。

所在地

〒629-2242
京都府宮津市大垣430

京丹後めぐり6

全記事リスト

京丹後めぐり
京都の北にある丹後半島周辺をめぐります。

コメント

タイトルとURLをコピーしました