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生田めぐり7 五宮神社

五宮神社の社号碑と木兵庫

生田裔神八社

兵庫県神戸市にある
生田(いくた)神社
の周辺には

生田裔神八社
(いくたえいしんはちしゃ)
といわれる

8つの神社が
祀られています。

これらの神社を巡拝するのも
神社めぐりの愉しみらしく

生田神社につづいて
順番にめぐっています。

生田裔神八社めぐりの案内板

五宮神社

四宮神社から
1キロほど
北西へすすむと

五宮(ごのみや)神社
があります。

奥平野(おくひらの)の
産土神だといいます。

五宮神社の社殿

天穂日命

ご祭神は
天穂日命(あめのほひ)
だといいます。

古事記・日本書紀では
誓約(うけい)で生まれた
次男とされるようですね。

ホツマツタヱでは
天照大神の第一子であり
長男とされるようです。

謀反の気配があった
出雲に派遣されるものの

そのまま
出雲に居ついてしまい

中央政府によって
出雲が国譲り(カシマダチ)
を迫られたのちは

出雲の全権を担った
ようですね。

出雲国造(いずものくにのみやつこ)
の祖ともいわれます。

出雲国能義郡の
天穂日命神社から
勧請されたといいます。

五宮神社の由緒

海上五十狭茅

創建は不詳ですが、こちらも
神功皇后(じんぐうこうごう)
が参詣されたといいますから

西暦200年ごろにはあった
のかもしれません。

神功皇后は
生田神社を創建したさい

海上五十狭茅(うなかみのいさち)
に奉斎させたといいますが

五宮神社のあたりは
海上五十狭茅の一族が暮らした地
だったようです。

生田神社祭祀氏族の里
といったところでしょう。

五宮神社の瓦

五十狭茅宿禰

わかりにくいのは
五十狭茅宿禰(いさちのすくね)
という人物が

まったく同じ時期に
敵対勢力として
あらわれるところです。

神功皇后の御子・
誉田別命(応神天皇)の

異母兄にあたる
麛坂皇子(かごさかのみこ)
忍熊皇子(おしくまのみこ)

遠征帰りの神功皇后を
明石で待ち伏せして
討とうとしていたようです。

五十狭茅宿禰はこの
異母兄側について

神功皇后や応神天皇に
敵対していたようですが
作戦は失敗してしまい

琵琶湖や瀬田の唐橋に
追いつめられて

五十狭茅宿禰は
なくなったといいます。

海上五十狭茅と
五十狭茅宿禰は
同一人物であるとか
親子であるともいわれ

敵対勢力の子孫を味方につけた
ことをあらわすともいうようです。

この一族は
上海上国(かみつうなかみのくに)
[上総国海上郡(千葉県市原市の一部)]
を治めていたとも

胸刺国(むさしのくに・武蔵国)
を治めていたともいうらしく

関東のほうに
ゆかりがあるようですね。

境内社

境内には、ほかに

大国主命(おおくにぬし)を祀る
出雲(いずも)社

岩松(いわまつ)大神を祀る
岩松稲荷(いわまついなり)社

猿田彦命(さるたひこ)を祀る
猿田彦(さるたひこ)社

がありました。

出雲社の看板

出雲社は

五宮神社の祭神である
天穂日命(ほひ)と

出雲の大国主命との
親密な関係をあらわしているのでしょう。

岩松大神と稲荷神社

岩松稲荷は
鬼門守護のようですね。

地主神を祀っているのでしょうか?

かつてはこのあたりまで
花街だったようですが

いまでは、とても
静かな住宅街になっています。

猿田彦神社と猫

猿田彦社は
導きの神というより

塞ノ神として
祀られているのでしょうか?

お社では
猫ちゃんがまどろんでいました。

祥福寺

五宮神社のうしろには
祥福寺(しょうふくじ)
境内がひろがっています。

もともとは、
五宮神社のほとりにあった
小さな庵からはじまったようですが

いまでは、
五宮神社よりもはるかに
巨大な寺院となっています。

おそらく、
新仏分離によって
わかたれたのでしょう。

祥福寺の聖観世音菩薩

夏目漱石(なつめそうせき)と
文通書簡を交わしていた
僧がいたといいます。

祗園神社

五宮神社の御朱印は
300メートルほど
西へすすんだ

祗園(ぎおん)神社
でいただけるといいます。

祗園信仰の神社で
素戔嗚尊(すさのお)
櫛稲田姫命(くしいなだひめ)
を祀るといいますが

もともとは
神仏習合の神である
牛頭天王(ごずてんのう)
頗梨采女(はりさいじょ)
を祀っていたのでしょう。

とはいえ
誓約(うけい)の地で

ソサノヲ(素戔嗚尊)
が祀られているのは
興味深いことです。

ワカヒメ(稚日女尊)
が祀られている生田神社の
ほぼ真西にあたります。

神戸をながれる
宇治川(うじがわ)
をへだてて

ソサノヲとワカヒメが
対峙しているようでもあります。

宇治川

生田裔神八社は
北斗七星の形を描いている
といいますが

五宮神社はなかでも
形を大きく乱している神社
でもあります。

どうやら、
当初の鎮座地は
さらに南の

宇治川の氾濫原にあった
といいます。

正確な位置はわかりませんが
そうなると柄杓形にも
ちかづいていくようです。

そして、おそらく
水難を逃れるために

生田神社祭祀氏族である
海上五十狭茅の地へ
遷座したのでしょう。

生田めぐり8

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