生田裔神八社
兵庫県神戸市にある
生田(いくた)神社
の周辺には
生田裔神八社
(いくたえいしんはちしゃ)
といわれる
8つの神社が
祀られています。
これらの神社を巡拝するのも
神社めぐりの愉しみらしく
生田神社につづいて
順番にめぐっています。
三宮神社
二宮神社から
1.2キロほど
南西へすすむと
三宮(さんのみや)神社
があります。
生田神社からだと
真南に600メートル
すすむとあります。
この地を
三宮(さんのみや)というのも
三宮神社によるようです。
井戸
かっては
境内に井戸があって
清水が湧いていたといいます。
港の条件として
ちかくに良水があること
が重要だったそうですが
ここもそのひとつであり
神戸の港へくる船は
かならず三宮神社へ参拝して
この井戸水を汲みとり
航海の飲用水としていたそうです。
三宮神社の創建時期も
不詳とされているのですが
港の井戸を中心として
聖地となったのではないか?
とされているようです。
三宮神社の宮司さんは
代々世襲だといいますが
「清水」という姓らしく
これもまた井戸からきている
といわれるようです。
湍津姫命
三宮神社のご祭神は
湍津姫命(たぎつひめ)
だといいます。
誓約(うけい)
によってうまれた
三女神のうちの
次女にあたるかたです。
多岐都比売命(たぎつひめ)
ともいわれるようです。
ホツマツタヱでは
タキコといわれていて
たきこひめ かくやまつみの
ホツマツタヱ 28アヤ
つまとなり かこやまうみて
さかむなる ゑのしまかみと
なりにける
タキコ姫は カグヤマツミと結ばれて カゴヤマ(天香語山命)を 生みました。 そして、タキコ姫は 剣をさがみに噛んで生まれた といわれるように サガム(相模)へゆき 江ノ島でなくなりまして 江ノ島の女神となりました。
いわゆる、
日本三大弁財天のひとつ
江ノ島弁財天というのが
タキコこと
湍津姫命のようですね。
夫となった
ヤマツミ(大山積)の一族は
天照大神以降の
朝廷をささえた重臣の一族で
神奈川の
大山(おおやま)を本拠として
富士山の管理を
担っていたようです。
重要な氏族ですが
やや複雑な事情もありますので
またいずれ追ってみたいと思います。
また、
二宮神社の祭神・
天忍穂耳尊(オシホミミ)と
年に一度の御対面する
という神事があるといいます。
社伝では、
御「兄」神となっていますが
順序としては
三宮神社の湍津姫命のほうが
さきに生まれていますので
「弟」にあたるはずです。
この入れ替わりにもなにか
意味があるのでしょうか。
かつて、ここは
沿岸部であったらしく
航海や交通の安全祈願
厄除の守護神として
信仰を集めていたようですね。
また、当地の発展から
商工業の繁栄を守る神としても
祀られているといいます。
河原霊社
生田神社のある
生田の森(いくたのもり)は
源平合戦の古戦場
だといいます。
合戦のさいに
源氏の兵であった
武蔵国埼玉郡河原の兄弟・
河原太郎高直(かわらたろうたかなお)
河原次郎盛直(かわらじろうもりなお)は
じぶんたちのような
弱小武者が功をあげるには
先陣をきるしかないとして
たった2人で
敵陣へと飛びこんだ
といいます。
兄弟は、あえなく
返り討ちとなるのですが
2人の勇敢さを
敵であった平家の兵も
たたえたようです。
また、この功名により
遺族たちも恩賞を得たといいます。
そんな兄弟を祀る塚と馬塚が
ちかくにあったといわれ
めぐりめぐっていまでは
三宮神社の境内に遷されて
河原霊社(かわられいしゃ)
に祀られているといいます。
兄弟は
武蔵七党(むさしひしちとう)のひとつ
私市(きさいち)党だったようです。
もともとは、
河内国交野郡私市村で
おこった氏族のようですが
埼玉郡北部へとうつり
私市党となったようです。
この私市党の本家から
河原氏がわかれたようですね。
河原霊社の向かいには
三宮神稲荷大明神と
安高稲荷第大明神が
祀られていました。
鬼門を守護する
お稲荷さんであり
地主神を祀っている
のでしょうか?
神戸事件
三宮神社は
神戸事件(こうべじけん)
発生地ともいわれるようです。
明治元年におこった
国際事件のことで
西国街道をいそぐ
備前藩の隊列のまえを
神戸港に停泊していた
フランス兵が横切ったので
これを「無礼」として
備前藩の隊員が斬りつけたところ
銃撃戦にまで発展したといいます。
諸外国は
居留置防衛のためとして
神戸を軍事占拠したらしく
あわや植民地になるか
という事態となったそうです。
大政奉還により
政権は徳川幕府から
朝廷へと返還されて
明治政府が
できあがった時期であり
日本は
開国の要求をのんで
神戸港には
米・英・仏・伊・和・普の
船が停泊していたといいます。
しかし、国内ではまだ
外国を排除しようとする
攘夷(じょうい)運動も
おさまらなかったようです。
諸外国との交渉にあたった
明治政府は
斬りつけた備前藩の隊員・
第3砲兵隊長の
滝善三郎正信(たきぜんさぶろう まさのぶ)
を刑に処すことを
要求されたといいます。
とはいえ、隊員のおこないも
日本国内では当然のものであり
フランス兵も
軽傷だったことから
たびたび
助命を嘆願したのですが
聞き入れられず
兵庫永福寺において
滝善三郎正信は
古式にならった
切腹をとげたといいます。
これにより
事件は一応の解決となり
滝善三郎正信の命によって
神戸は植民地をまぬがれた
ともいえるそうです。
砲兵隊長というように
砲術にたけた一族だったようです。
三宮神社の前で
おこったことから
当初は
三宮事件とも
いわれていたそうです。
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