生田裔神八社
兵庫県神戸市にある
生田(いくた)神社
の周辺には
生田裔神八社
(いくたえいしんはちしゃ)
といわれる
8つの神社が
祀られていました。
アマテラスとスサノオの
誓約(うけい)によって生まれた
五男三女(ごなんさんにょ)の
計8人の御子を
それぞれの神社で
祀っているといいます。
これらの神社は
北斗七星の形にならんでいる
といわれるのですが
地図上で結んでみても
それらしくはみえません。
ですが、
旧鎮座地をむすんでみると
別の形がみえてきそうです。
そこで、まずはざっくり
8つの神社をまとめてみます。

一宮神社
長女・田心姫(たごりひめ)
を祀る神社です。
旧・生田川(いくたがわ)の
西岸の丘にあり
生田の地をおさめた
生田首(いくたのおびと)が
暮らした地のようです。
二宮神社
長男・天忍穂耳尊(おしほみみ)
を祀る神社です。
旧・生田川の東にあり
生田川を祀る地
でもあるようです。
祭神は
天照大神の世継ぎでもあるため
8つの神社のなかでももっとも
重要とされているようです。
三宮神社
次女・湍津姫命(たぎつひめ)
を祀る神社です。
かつては、このあたりが
沿岸だったそうですが
この地は
井戸水(飲用水)が湧く
聖地とされていたようです。
四宮神社
三女・市杵島姫命(いちきしまひめ)
を祀る神社です。
いまでは、
三宮神社の地のほうが
繫華街となっていますが
かつては、
四宮神社の地のほうが
生田の中心地だった
のかもしれません。
旧鎮座地は、やや
花隈城(はなくまじょう)に
ちかいあたりかもしれません。
五宮神社
次男・天穂日命(ほひ)
を祀る神社です。
生田神社の祭祀を担った
海上五十狭茅(うなかみのいさち)
の一族が暮らした地のようです。
旧鎮座地は、ここより南の
宇治川の氾濫原にあった
といいます。
場所ははっきりとは
わかりませんでしたが仮に
宇治川公園のあたり
としてみます。
宇治川を祀る神社だった
のでしょうか?
六宮神社
三男・天津彦根命(あまつひこね)
を祀る神社です。
現在は、
八宮神社に合祀されていますが
旧鎮座地は、すこし西の
湊翔楠中学校のあたりだったようです。
もしかすると、
大倉山(おおくらやま)を祀る地
だったのかもしれません。
七宮神社
8つの神社のなかでも
ここはすごく特殊な神社です。
誓約の神でいうと
四男・活津彦根命(いきつひこね)
を祀るはずなのですが
ここでは、
素戔嗚尊(すさのお)の子・
大己貴命(おほなむち)
が祀られています。
旧鎮座地は
会下山(えげやま)のあたりで
神功皇后にも仕えたという
北風家が暮らした地のようです。
会下山を祀る神社だった
のでしょうか?
八宮神社
五男・熊野櫲樟日命(くまのくすひ)
を祀る神社です。
旧鎮座地は、すこし南東の
兵庫県弁護士会館のあたりに
だったようです。
かつての沿岸部で
宇治川がそそぐ地だった
とすると
港を守護する神社
だったのでしょうか?
北斗七星
8つの神社をそれぞれ
旧鎮座地でみてみると
北斗七星の形が
あらわれてくるようです。
北斗七星といっても
星は8つあるといわれていて
6番目の星(ミザール)の
すぐ横に
8番目の星(アルコル)が
あるそうです。
生田裔神八社も
六宮神社と八宮神社が
すぐ近くにありました。
これは、
六甲山にひらかれたという
六甲修験道(ろっこうしゅげんどう)
の北斗七星と鏡写しになっています。
どこか、
おおくま座とこぐま座
のようでもあります。
ここに、
生田神社のワカヒメと
廣田神社の瀬織津姫の関係を
みることができるのかもしれません。
アマテルの御子
ホツマツタヱでは
天照大神の御子について
このようにあります。
むかつひめ ふぢおかあなの
ホツマツタヱ 6アヤ
おしほゐに うぶやのみみに
あれませる おしほみのみこ
おしひとと いみなおふれて
かみありの もちゐたまえは
たみうたふ さきにもちこが
うむみこは ほひのみことの
たなひとぞ はやこがみつご
ひはたけこ おきつしまひめ
ふはたきこ ゑつのしまひめ
みはたなこ いちきしまひめ
しかるのち あきこがうめる
たたきねは あまつひこねぞ
しかるのち みちこがうめる
ばらきねは いきつひこねぞ
とよひめは ねのうちめにて
ぬかたたの くまのくすひぞ
みこすべて ゐをとみめなり
すこし長いので
小分けにして見てゆきます。
オシホミミ
むかつひめ ふぢおかあなの
ホツマツタヱ 6アヤ
おしほゐに うぶやのみみに
あれませる おしほみのみこ
おしひとと いみなおふれて
かみありの もちゐたまえは
たみうたふ
ホツマツタヱの6アヤは
天照大神と12人の妃について
かかれてていまして
終盤部分では
いちばん最後に入内した
瀬織津姫(せおりつひめ)こと
ムカツヒメ(向津姫)が
天照大神(アマテル)の
8人の御子のうち
末っ子あたる
オシホミミ(天忍穂耳尊)
を生んだシーンが描かれています。
ムカツヒメは 藤岡山(伊勢外宮)の 端(みみ)にあたる オシホ井の水を産湯として 子どもを生んだので オシホミミ(天忍穂耳) と名づけました。 諱(いみな・本名)は オシヒトとしまして 世にふれをだしますと 皇后とのあいだに 皇子が誕生した祝いに ひとびとには 餅飯がふるまわれました。 すると、ひとびとは 天照大神の御子たちを 称える歌を詠いました。
8人目にあたる
オシホミミが世継ぎの御子
とされたので
これまでに生まれた
1~7人の御子も称えた
という流れのようです。
ですから、
ここ以降の部分は
『歌』にあたります。
ホヒ
さきにもちこが
ホツマツタヱ 6アヤ
うむみこは ほひのみことの
たなひとぞ
第1子は マス姫モチコとのあいだに 生まれた長男・ ホヒ(天穂日)の尊です。 諱(本名)は タナヒトといいます。
オキツシマヒメ
はやこがみつご
ホツマツタヱ 6アヤ
ひはたけこ おきつしまひめ
つづいては コマス姫ハヤコが産んだ 三つ子の姉妹で 第2子は長女・ オキツシマヒメ(沖津島姫命) [田心姫(たごこりひめ)]です。 諱(本名)を タケコといいます。
ヱツノシマヒメ
ふはたきこ ゑつのしまひめ
ホツマツタヱ 6アヤ
第3子は次女・ ヱツノシマヒメ(江ノ島姫) [湍津姫命(たぎつひめ)]です。 諱(本名)を タキコといいます。
イチキシマヒメ
みはたなこ いちきしまひめ
ホツマツタヱ 6アヤ
第4子は三女・ イチキシマヒメ(市杵島姫)です。 諱(本名)を タナコといいます。
アマツヒコネ
しかるのち あきこがうめる
ホツマツタヱ 6アヤ
たたきねは あまつひこねぞ
そのあとにつづくのは ハヤアキツ姫アキコが産んだ 第5子の次男・ アマツヒコネ(天津彦根)です。 諱(本名)を タタキネといいます。
イキツヒコネ
しかるのち みちこがうめる
ホツマツタヱ 6アヤ
ばらきねは いきつひこねぞ
そのあとにつづくのは オオミヤ姫ミチコが産んだ 第6子の三男・ イキツヒコネ(活津彦根)です。 諱(本名)を バラキネといいます。
クマノクスヒ
とよひめは ねのうちめにて
ホツマツタヱ 6アヤ
ぬかたたの くまのくすひぞ
西の局の内侍であった トヨ姫アヤコが産んだのは 第7子の四男・ クマノクスヒ(熊野櫲樟日)です。 諱(本名)を ヌカタタといいます。
五男三女
みこすべて ゐをとみめなり
ホツマツタヱ 6アヤ
そうしてこののち セオリツ姫ホノコが 第8子の五男・ オシホミミ(天忍穂耳)を 産みましたので 8人の御子を すべてあわせると 五(ゐ)男(をと) 三(み)女(め) となりました。
ホツマツタヱでは
五男三女(ごなんさんにょ)
にという言葉も
描かれているようですね。
また、
ホツマツタヱでは
オシホミミは第8子の五男
とされていますが
古事記・日本書紀では
オシホミミは第1子の長男
とされています。
いま解説した
6アヤ抜粋部分も
ただ記述だけを追えば
オシホミミが一番上
にきていますから
天照大神の世継ぎとして
際立たせるために
このような順序で描いたとしたら
古事記・日本書紀が
忖度して意図を汲んだ
といえるのかもしれません😆
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