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京丹後めぐり14 大宮賣神社

大宮売神社の鳥居京都

大宮賣神社

乙女神社より
鱒留川(ますどめがわ)
をくだると

竹野川(たかのがわ)
へと合流します。

そこから今度は
竹野川をのぼってゆくと
大宮町がひろがっています。

大宮売神社の鳥居

ここには
丹後国二宮といわれる
大宮賣(おおみやめ)神社
があります。

丹後国一宮である
籠(この)神社
に次いで

京丹後では
重要な神社なのでしょう。

大宮売神社の参道

籠神社の奥宮である
眞名井(まない)神社

久次岳(ひさつぎだけ)
を結んだ直線の

ちょうど
真ん中あたりにあります。

二座

神社というのは
主祭神は1柱のみ
というのが一般的ですが

ここは
主祭神が2柱であり

大宮賣神(おおみやめ)
若宮賣神(わかみやめ)


という女神を祀っています。

ですから正式名称は
大宮売神社二座(おおみやめじんじゃにざ)
なのだそうです。

大宮売神社の社号碑

大宮賣神

大宮賣神は
古事記・日本書紀には
登場しないものの

古語拾遺(こごしゅうい)
という平安時代の神道書には

天照大神の侍女
として登場するといいます。

其殿令大宮賣神侍於御前
是太玉命久志備所生神如
今世内侍善言美詞和君臣間令宸襟悦懌也

古語拾遺一巻

古語拾遺によれば
天岩戸(あめのいわと)から
出てきたばかりの

天照大神の新宮に
仕えた女官の神
だといいます。

大宮売神社の奉納品

内侍(女官)たちが
麗しい言葉によって

君と臣の関係をやわらげ
御心を喜ばせるよう
とりはからったようです。

祭礼を司っていた
太玉命(ふとたま)の娘
といわれています。

大宮売神社の参道

宮中八神

皇居には
宮中八神(きゅうちゅうはっしん)
という8柱を祀る
神殿(しんでん)があり

皇室をはじめ
国家を守護する神として
祀られているといいますが

大宮賣神は
宮中八神のひとり
として

いまでも皇居の神殿に
祀られているといいます。

大宮売神社の境内

女官や宮殿を
神格化した存在といわれ
調和を保つ神ととされることから

旅館や百貨店など
接客業の守護神
としても
信仰されているといいます。

造酒司

大宮賣神社は
社名に「大宮売」とはいっている
唯一の式内社だといいます。

創建時期は不明
とされていますが

すくなくとも
延喜式の書かれた
平安時代にはすでに

名神大社という社格で
厚く祀られていたようです。

ですから、
宮中の大宮賣神の元宮
ともいわれるそうです。

大宮売神社の境内

また酒や酢など
醸造を司った役所である
造酒司(みきのつかさ)
にも祀られていたらしく

お酒に関わる神
でもあるようです。

ほかに、
大宮賣神を祀る神社といえば
伏見稲荷大社などがあります。

大宮売神社の神池

オオミヤヒメ

ホツマツタヱにも
オオミヤヒメは登場します。

天照大神の
12人の妃のひとり

であり

東の局の筆頭である
オオミヤヒメ(ミチコ)
というかたです。

天照大神との間には
イキツヒコネ(活津彦根命)
をもうけました。

イキツヒコネといえば
彦根(ひこね)の語源
となったかたです。

大宮売神社の石灯篭

オオミヤヒメ(ミチコ)は
妹である
タナハタヒメ(コタヱ)
とともに入内したようです。

「タナハタ」とは
「棚機」のことであり
機織りに長けた方だったのでしょう。

オオミヤヒメが
大宮賣神であり

タナハタヒメが
若宮賣神でしょうか?

大宮売神社の手水

酒作りや機織りというと
羽衣伝承にも通じそうですが

おふたりにも所縁がある
のでしょうか?

オオミヤヒメの父は
ヤソキネといいます。

豊受大神の跡を継いで
日高見国(ひたかみ)
を治めたかたで

神皇産霊尊(かんみむすび)
とも称えられています。

日高見国とは
東北地方のことですから

オオミヤヒメもタナハタヒメも
東北で生まれた
と考えられます。

だからこそ
「東」の局として
入内したようです。

ですから、おふたりは
京丹後とはあまり
関係がないように思われます。

大宮売神社の拝殿

マスヒメ

ホツマツタヱによれば
豊受大神は晩年になると
京丹後に暮らしたといいます。

そしてそのまま
京丹後でなくなったそうです。

天照大神は
豊受大神を弔うために
京丹後の地へ訪れると

そのまましばらく
滞在したといわれます。

このとき
天照大神の世話係として

北の局にあたる
モチコ・ハヤコ・アチコ
が派遣されました。

北の局というように
ネ(根・北)国の出身ですから

京丹後の地にも
通じていたのでしょう。

大宮売神社の扁額

モチコは
マスヒメ(モチコ)
といいます。

天照大神が
宮津に滞在している間に

天照大神とのあいだに
長男のホヒ(天穂日命)
をもうけました。

ハヤコはモチコの妹であり
コマスヒメ(ハヤコ)
といいます。

天照大神が
宮津に滞在している間に

天照大神とのあいだに
長女タケコ(田心姫神)
次女タキコ(湍津姫神)
三女タナコ(市杵島姫神)
をもうけました。

内侍の神格化が
大宮賣神というのなら

大宮賣神社で祀られている
大宮賣神とは
マスヒメ(モチコ)
のことであり

若宮賣神とは
コマスヒメ(ハヤコ)
のことかもしれません。

大宮売神社の摂社
忠魂社。社殿は、大宮賣神社の旧本殿。

藤社神社の地にも
「鱒(ます)」留川
が流れていたり

「摩須(ます)」という
氏族が暮らしていたことから

マスヒメ・コマスヒメ
の地と考えられそうです。

大宮賣神社の地とは
モチコ・ハヤコ・アチコ
が滞在した宮跡


産屋の地であった
のかもしれません。

けれどものちに
モチコ・ハヤコは

反乱軍となって
朝廷と敵対してしまったので

おふたりの名で
祀るわけにはいかず

かといって
天照大神の御子の母を
祀らないわけにもいかず

女官の神名である
「大宮賣」として祀られた
のではないでしょうか?

大宮売神社の碑

さらにいえば
アチコという妃は
カダの娘であり

伏見稲荷大社にも
深く関わることから

伏見稲荷大社で祀られる
大宮能売大神(おおみやめ)とは
アチコのことかもしれません。

周枳

この地は丹波郡の
周枳(すき)郷にあたる
といわれています。

大宮売神社の奉納品

天皇陛下が即位されたときの
大嘗祭(だいじょうさい)では

悠紀(ゆき)殿
主基(すき)殿


にそれぞれ
供物が捧げられるのですが

かつての大嘗祭において
主基殿に稲を収めるという
主基田に選ばれた地から

周枳(すき)
という地名になった
といわれるようです。

この地が選ばれたのもまた
大宮賣神社があったから
のようですね。

大宮賣神社の地名

古代祭祀場

創建は不明
とされていますが
ご由緒によれば

崇神天皇7年に
詔勅によって
大宮売神を祀り

崇神天皇10年に
丹波道主命(たんばみちぬし)
が若宮売神を祀ったとあります。

大宮売神社の由緒

古代から
祭祀が行われていたことを
示すかのように

大宮賣神社の境内からは
弥生時代前期の遺跡が
見つかっているといいます。

当時からすでに
集落があったことは
違いないようです。

大宮売神社の古代祭祀場の石碑

本殿裏の神苑も
禁足地となっていました。

神主さんの
お話しによれば

文化というのは
川の河口付近と
上流付近で発展する
のだそうです。

大宮町のあたりは
竹野川の上流にある盆地
であることから

はるか古代から
栄えていたといいます。

大宮売神社の神苑

出土品

古代史に興味があることを
神主さんにお伝えすると

社務所の奥に
展示されている

境内の出土品を
見せていただきました。

大宮売神社の境内出土品
大宮売神社の境内出土品
大宮売神社の境内出土品

弥生時代には
すでに渡来した人々による
暮らしがあり

稲作や呪術的な祭祀で
権力をもった豪族が
政をおこなっていたといいます。

大宮売神社の境内出土品
大宮売神社の境内出土品
大宮売神社の境内出土品

しかしながら
こうした出土品と
歴史家との間には
見解の相違もあったらしく

はやばやと
文化財に指定されてしまい

いまでは
発掘調査もできない
のだそうです。

大宮売神社の境内出土品

弥生時代だけではなく
古墳時代から
近現代まで

さまざまなものが
展示されていました。

大宮売神社の翁面
大宮売神社の扁額
大宮売神社の展示

京丹後には
6000基もの古墳がある
といいます。

浦嶋神社
神主の奥さまからも
うかがいましたが

太古より京丹後には
渡来の文化や
造船・稲作・製鉄
などなどで栄えた
強国があったそうです。

大宮売神社の境内

すると
大宮賣神社の
神主さんから

「浦嶋神社の神主は
親戚なんですよ」
とうかがいました。

大宮売神社の摂社

つづけて

「宮津にある
和貴宮(わきのみや)という神社も
親戚が宮司をしていますので
よかったら行ってみてください」

とうかがいました。

このようにうかがっては
訪ねないわけにはゆきません。

ということで次は
和貴宮神社へと続きます。

所在地

〒629-2503
京都府京丹後市大宮町周枳1020

京丹後めぐり15

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京丹後めぐり
京都の北にある丹後半島周辺をめぐります。

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