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京丹後めぐり15 和貴宮神社

和貴宮神社の神門京都

和貴宮神社

宮津市役所より
100メートルほど
西へゆくと

和貴宮(わきのみや)神社
があります。

宮津湾(みやづわん)
の最奥部にあたり

大手川(おおてがわ)
がそそぐこの地は

丹後国の中心地だった
といわれるようです。

和貴宮神社の神門

分宮

若狭湾(わかさわん)
という巨大な湾の

西端部にあたる
宮津湾は

古代より
天然の漁港として
栄えていたようです。

古文書や社伝などは
焼失してしまった
ために

創建や由緒などは
不明だといいますが

古くから
「ワキノミヤ」として
称えられていたようです。

和貴宮神社の拝殿

室町時代になって
籠神社眞名井神社)の
祭神である

豊受大神(とようけおおかみ)
の分霊を合祀したことから

丹後国一宮別宮総社
といわれるようになり

分宮(わきのみや)
とも表記されたようです。

和貴宮神社の拝殿

ほかには
和伎宮(わきのみや)
江島宮(えのしまみや)

などともいわれたようです。

天橋立の北には
江之姫(えのひめ)神社
がありましたが

当社を
江之島(えのしま)宮
といったのは

天橋立を南北ではさんで
対になっている神社だった
のかもしれませんね。

和貴宮神社の奉納額

豊受毘売神

籠神社の分霊を祀る
というのですが

和貴宮神社に
祀られているのは
豊受大神ではなく

豊受毘売神(とようけびめ)
となっています。

一般的には
豊受大神と豊受毘売神は
同神とされていますから

問題ないようにも
みえますが

羽衣伝説などの
歴史や伝承をみるに

丹後国において
豊受毘売神というのは
豊受大神に奉斎した巫女

のことといえそうです。

和貴宮神社の案内看板にも
「宮津地名発祥の守護神」
とありました。

和貴宮神社の案内看板

宮津という地名は
「宮(神社)のある津(港)」
からきているといわれます。

ここでいう「宮」とは
籠神社(眞名井神社)のこと
と考えられるのですが

そうであるならば
「宮津地名発祥の神」を祀る
となるはずです。

けれどもあえて
「守護神」としているのは

宮津地名発祥の神は
豊受大神であり

豊受大神の守護神として
豊受毘売神がいる

からでしょうか?

和貴宮神社の奉納額

ご祭神

籠神社(真名井神社)より
合祀された

豊受大神(豊受毘売神)
のほかにも

ここには
名だたる神々が
祀られていました。

和貴宮神社の由緒

まずは
原初神といわれている
天之中主神(あめのみなかぬし)
国常立尊(くにとこたち)

というかたがたです。

和貴宮神社の主祭神は
天之中主神だといいます。

ホツマツタヱでは
はじめの人間というような存在が
アメノミナカヌシであり

アメノミナカヌシがのちに
国を興して君主となると

クニトコタチとして
称えられました。

和貴宮神社の奉納額

クニトコタチよりつづく
7代目の君主が
イサナギとイサナミであり

おふたりの御子が
天照大神となります。

和貴宮神社ではこの
伊邪那岐神(いざなぎ)
伊邪那美神(いざなみ)
天照大神(あまてらすおおかみ)

も祀られています。

和貴宮神社の神馬

ほかには
水神といわれる
天水分神(あめのみくまり)
も祀られています。

ホツマツタヱ的にみれば
男神・天照大神の后である
セオリツヒメ(瀬織津姫)
のことでしょうか?

海神や龍神といわれる
海津見神(わだつみ)
はおそらく

海洋航海を担っていた
海人族の神として
祀られているのでしょう。

猿田彦神(さるたひこ)
といえば道行の神ですから

漁村に暮らすひとびとが
海上でも迷うことのないように
祀られているのでしょうか?

やちまた神の碑

我野姫命

ご祭神のなかで
異彩を放っているのが

草の神とわれる
我野姫命(かやのひめ)
です。

古事記では
鹿屋野比売(かやのひめ)

日本書紀では
草野姫(かやのひめ)

と表記されています。

別名を
野椎神(のづち)
ともいうらしく

蛇やミミズのような姿
をしていたとか

妖怪の類であるとも
いわれるようです。

けれどもこれは
「野つ靈(ち)」
からきているらしく

「野(草)の精霊」
意味するといいます。

こうしたことから

野の神
漬物の神
タバコの神
灌漑用水の神


などとして
信仰されるようです。

和貴宮神社の神馬

「カヤ」とは
「茅(かや)」のこと
ともいわれます。

茅といえば古代より
屋根や飼料や燃料など
さまざまに活用されてきた
重要な植物です。

茅は水辺に生えますから
大手川の河口に近いここには

茅原(かやはら)が
広がっていたのかもしれません。

ホツマツタヱでは
妻をなくしたイサナギは
のちに

葦原の葦を抜いて田となし
水耕栽培を広めたといいます。

この地はもしかすると
イサナギが水耕栽培をひろめた
地のひとつ
なのでしょうか?

また一説には
古代朝鮮半島の南にあった
「伽耶(かや)」国のこと
ともいわれるらしく

伽耶姫(かやのひめ)という
渡来人だったのではないか
ともいうようです。

丹後半島は
日本海に面した
海人族の地ですから

太古より
おおくの渡来人が訪れて
文化を発展させたのでしょう。

和貴宮神社は
我野姫命を祀ることから

吾野(かやの)神社
とも呼ばれていたようです。

和貴宮神社の神木

水越岩

和貴宮神社は
宮津の市街地にある
神社なのですが

境内には
巨大な磐座があります。

和貴宮神社の水越岩

水越岩(みずこしいわ)
といわれるもので

かつてはここが
海辺であった跡だと
伝えられているといいます。

和貴宮神社と水越岩の由緒

海中に沈む大岩が
潮の満ち引きとともに

水面を越してあらわれたから
「水越」といわれたのでしょう。

和貴宮神社の水越岩

また水越岩には
海神がここで釣りをしていた
という伝説もあるらしく

鯛釣岩(たいづりいわ)
ともいわれるようです。

ほかには
波越巌(なみこしいわ)
という名称もあるといいます。

和貴宮神社の恵美須社

いずれにせよ
和貴宮神社の創建にも
深く関わるものでしょう。

ワキノミヤ

「ワキノミヤ」を
ホツマツタヱから
解釈してみてみますと

アワキノミヤ(阿波岐宮)
アワキミノミヤ(アワ君の宮)

なのかもしれません。

どちらも
イサナギに所縁のある
言葉ですから

ここには
イサナギの行宮があった
のかもしれません。

また、
ワキミノミヤ(和君の宮)
とするならば

イサナギの子である
天照大神の宮ととることも
できるでしょう。

天照大神は
祖父の豊受大神を
弔うために

しばらく
宮津の地に留まった
といわれることから

ここには
天照大神の行宮があった
のかもしれません。

和貴宮神社の摂社

宮津城

400メートルほど
北東には

宮津城(みやづじょう)
の跡地があります。

戦国の世に
丹後を治めていた
一色(いっしき)氏
滅ぼしたのちに

細川藤孝(ほそかわふじたか)
築いた居城です。

のちには
細川忠興(ほそかわただおき)
という藤孝の子が

明智光秀の三女
細川ガラシャを正室として

ともに暮らした城
としても知られるようです。

細川氏ののちには
京極氏が治めたらしく

ここにはそんな
一色氏・細川氏・京極氏
に関わる歴史も
数多く残るようです。

所在地

〒626-0023
京都府宮津市宮本428

京丹後めぐり16

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京丹後めぐり
京都の北にある丹後半島周辺をめぐります。

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