ホツマ歌壇
ホツマツタヱの研究同人誌・
『検証ほつまつたゑ よみがえる縄文叙事詩』には
読者が投稿した「歌」が掲載される
「ホツマ歌壇」のコーナーがあります。
和歌・短歌・長歌・俳句・自由歌など
五七調であればよいそうです。
第126号(令和5年4月号)には
ぼくの歌も掲載されましたので
当ブログでも
紹介させていただきます。
カガミ
今号のお題は『カガミ』で
「鏡」「八咫鏡」
を詠みこむことだそうです。
神が糧
神が糧 食うチヨミ草 名は山や 花咲く御世路 受く手鏡か かみがかてくうちよみくさなはやまやはなさくみよちうくてかがみか
ホツマツタヱの世界には
回り歌(まわりうた)
というのもがあります。
前から読んでも後から読んでも
おなじになるという回文の歌です。
鏡のテーマにあわせて
鏡あわせとなるような
回り歌を詠んでみました。
天照大神は長生きの秘訣として
富士山に自生する
植物を食べていたそうです。
チヨミ(千代見)草とか
ハラミ(蓬莱)草とか言われたらしく
そこから富士山もかつては
ハラミ山といわれていたといいます。
そんなハラミ山の麓で
天照大神は都をひらいて
治政をはじめたのですが
やがて、御子・
オシホミミが治世を継ぐさいは
三種の神器のひとつとして
「鏡」の教えを受けついだといいます。
禍お為すや
禍お為すや 民磨かんが 煤黒く 濯がん鏡 見たや素直か かおなすやたみみがかんがすすくろくすすがんかがみみたやすなおか
こちらも、回り歌です。
ハタレの動乱がおこったさい
天照大神の后・瀬織津姫(せおりつひめ)は
真経津八咫鏡(まふつのやたかがみ)によって
ハタレたちを改心させたといいます。
そして以後は、ひとびとが
おのれの心を「鑑みる」ために
二見浦の岩に鏡が置かれたようです。
ひとびとがみずから
心根を磨こうとおもっても
沸き起こった悪心を
祓えないことがあります。
そんなときは、この
鏡を見ることで悪の根を捕らえて
心を清らかにすすぐことで
素直なじぶんに立ちかえることが
できるのだそうです。
おさなき日
おさなき日 粧う祖母の 背をながめ 三面鏡 ごしに目のあう
祖母の家には、三面鏡があり
外出のさいはそこで化粧をしていました。
三面というのは
祖母・母・子の3代という意味や
祖母の顔、母の顔、女の顔という
3つの顔のことでもあり
ふだん見ることのない
祖母の女性的な部分に触れた
という歌です。
わたの原
わたの原 若狭にみちる 夕凪も 丹生の御池に しずむ鏡か
丹生都比売(にうつひめ)神社の
鏡池(かがみいけ)には
不老不死とうたわれた
八尾比丘尼(やおびくに)が
鏡を投げ入れたという伝承があります。
そんな八尾比丘尼の墓が
若狭にあるといわれるので
若狭湾の夕凪にはえる
夕日の赤と
丹生都比売の
鳥居や橋や丹砂の赤を
鏡をまじえて詠んでみました。
未掲載歌
このほかにも
未掲載となった投稿歌があります。
こちらに載せて
往生させようと思います。
牧の火と
牧の火と ひとすじの夜の あればよし わがタマシヰを かんがみるため
キャンプなんかにいって
焚火をぼんやりとながめて過ごす
そんなひとときはちょっと
瞑想的でもあるなあという歌です。
「牧」という字は、
「薪」のほうがただしいのですが
心を自由に遊ばせる場ということで
「牧」の字を用いてみました。
九州のほうには
「牧の神(まきのかみ)」
という信仰もあります。
軍馬や駅伝馬の産地となる
牧場に祀られた神さまだといいます。
「鏡」とは、
「鑑みる」ものというのも
ホツマツタヱの伝えるところです。
むらきもの
むらきもの 心曇りし ときなれば 鏡磨きの ザクロの実かな
中世までは、鏡を磨くために
ザクロの実が使われていたそうです。
それになぞらえて
心の鏡が曇ったときには
ザクロを食べればよいのでは?
という遊びの歌です。
「むらきもの(群肝の)」は
「心」かかる枕詞だといいますが
ホツマツタヱからみるならば
「むらくも(叢雲)」や
「ゐくらむわた(五臓六腑?)」
にも掛かっていそうでやはり
内心[体の内側にあり目に見えないもの]
のわだかまりをあらわすようです。
イサナギも
イサナギも 鏡をこえて ゆきしかな コクトー映画の オルフェのように
フランスの映画監督である
ジャン・コクトーは
「オルフェ」という作品を
残しています。
ギリシャ神話の
「オルフェウス伝説」を
モチーフとしていまして
亡き妻をもとめて
冥界へとおりてゆくという
『黄泉くだり』が描かれています。
映画のなかでは
鏡のなかにはいることで
黄泉へゆくのですが
鏡とゆかりの深い
イサナギも鏡にはいることで
黄泉くだりをおこなったのかな?
という歌です。
イシコリの
イシコリの 留めしものは 型でなく 鋼のおくに ゆらぐ姿か
はじめて鏡をつくったのは
イシコリトメ(石凝姥命)
といわれます。
ホツマツタヱによれば
「いつくり(鋳造り)」によって
作られたといいますから
鋳型に溶かした鋼を流して
作られたものだと思われます。
「型(かた)」をとどめる
という作りかたは
「姿(すがた)」をとどめたい
という願いによって
生まれたのだとすれば
みずからを
「鑑(かんが)みる」ために
「鏡(かがみ)」と呼ばれた
のかもしれませんね。
民もまた
民もまた 神のうつしみ 八咫鏡 ツツガなきやと シコメ追はしむ
「ヤタ」という言葉は
当時のひとびとの平均身長であり
円周が「ヤタ」の鏡だったといいます。
ですから、ひとびとのことを
「ヤタミ」といったりもします。
「ヤタカガミ」には、
「タミ(民)」が心を磨くことで
「カミ(神・守)」にもなるという
願いもあるのでしょう。
『黄泉くだり』をおこなったイサナギは
妻・イサナミにとがめられて
シコメ(醜女・鬼女)に追われたといいますが
このシコメも8人だったといいます。
イサナミはのちに、
クマノ(熊野)神と称えられますが
クマノ神の使いとされる
8羽のカラス(烏)は
8人のシコメの化身だといいます。
「カラス」は
「枯らす(明らす)」にも通じていて
身のうちにある悪心を晴らす
というような意味もあるそうです。
シコメに追われるというのは
恐怖体験のように思われますが
じつは心のわだかまりを祓うもの
筒を蝕む「ガ(邪・我)」を祓うという
荒療治だったのかもしれません。
「ツツガ(恙)」は
「拘置所」などとも訳されるようですが
意味合いとしては
「ガ(邪・我)」を留めおく
「ツツ(筒・包)」のことで
例えるならば、
喉に刺さった魚の小骨
のようなものです。
ヲシテ文字においても
「ガ」の文字は
「カ」の文字の縦線を
阻害するような点が打たれます。
ですから、この歌は
「ヤタミ(八民)」が神となるためには
シコメ「8人」に追われるような
試練をへて「ガ」を祓うことで
「カガミ」がから
「ガ」がはらわれて
「カミ」となりますよ
という言葉遊びを詠っています。
身を焦がし
身を焦がし さまよい逃る 戸隠の コカシラうつす 鏡池かな
長野にある
戸隠(とがくし)神社の
九頭竜(くずりゅう)社や
戸隠山をうつす
鏡池を詠んだ歌です。
ホツマツタヱによれば
恨みのなかで亡くなったモチコ妃は
コカシラノオロチ(九頭の蛇)
に転生したといいます。
モチコとしては
わが子(ホヒ)を世継ぎ(頭)にしたかった
という願いがあり
子頭(コカシラ)にも
かかっているのだそうです。
また、そこには
嫉妬の炎に身を焦がした
焦がし(コガシ)も
掛かっているのでしょう。
そんなモチコこと
コカシラオロチは長野の地で
トガクシによって
祀られることとなり
その魂も鎮まったといいます。
そんないわれのある
戸隠の山を鏡池からみれば
マフツの鏡にうつして
心が鎮まったようにもみえる
瀬織津姫と
和解したようにもみえる
そんな歌でもあります。
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