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京丹後めぐり7 麓神社

麓神社京都

麓神社

籠(この)神社より
500メートルほど
北東へゆくと

麓(ふもと)神社
があります。

第23代・
顕宗(けんぞう)天皇

第24代・
仁賢(にんけん)天皇

というご兄弟の天皇が
まだ若きころ

権力争いから逃れて
隠れ住んだ地だといいます。

麓神社からの景色

オケ・ヲケ

麓神社の祭神は

兄・
億計王(おけのみこ)
[第24代・仁賢天皇]

弟・
弘計王(をけのみこ)
[第23代・顕宗天皇]

だといいます。

オケ・ヲケという
ご兄弟の物語は

古事記終盤の
ハイライトでもあり
とりわけ熱く語られます。

麓神社

当時は、権力争いや
後継者争いがつづいていて

オケ・ヲケ兄弟の父である
市辺押磐皇子
(いちのへのおしはのみこ)

第21代・
雄略(ゆうりゃく)天皇に
だまし討ちされたといいます。

そこで、
オケ・ヲケの兄弟は
命を守るべく

従者とともに
身を隠したようです。

帳內日下部連使主
與吾田彥(使主之子也)
竊奉天皇與億計王
避難於丹波國余社郡

日本書記 弘計天皇 顯宗天皇
舎人(従者)であった
日下部連使主(くさかべのむらじおみ)と
子・吾田彥(あたひこ)は

ひそかにふたりの皇子を
お守りしながら

丹波国の
余社(与謝)郡へ
難を逃れた

この逃れた地というのが
麓神社のようです。

なぜ、丹波国かというと
従者の日下部氏は

浦島太郎のモデルにもなった
浦嶋子(うらしまこ)の子(孫)
だったといいます。

また、この地で
兄弟をかくまったのは

今田三郎という
豪族だったといいますが

このかたも
浦嶋子の弟といわれ
海人族だったようです。

ヲケ・オケ兄弟の
支持基盤の地だった
のかもしれませんね。

宮津湾の景色

丹波小子

しばらくは、
丹波国に隠れていたようですが
やがてオケ・ヲケの兄弟は

播磨国(兵庫県)へと
逃れていったらしく

志染の石室(しじみのいわむろ)
に隠れ住んだようです。

そこから、さらに
丹波小子(たにわのわらわ)
と名をかえると

播磨国の豪族・
縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)
に仕えたといいます。

皇族でありながら
使用人にまで身をやつしていた
ということのようです。

第21代・
雄略天皇が崩御すると
その御子が

第22代・
清寧(せいねい)天皇
に即位したそうです。

しかし、このかたは
子がないまま
なくなったらしく

さらには、先代よりつづく
世継ぎ争いによって
皇位継承できるものもなく

朝廷は世継ぎ問題に
悩まされていたといいます。

麓神社のキノコ

そんなとき、
播磨に遣わされた国司・
伊予来目部小楯
(いよのくめべのおだて)


播磨の豪族である
縮見屯倉首の新築祝いに
参加したといいます。

すっかり酒に酔い
気分もよくなってきたので
ちょっとした戯れに

竈で火を焚いていた
童子ふたりに

舞いを舞うように
うながしたといいます。

童子ふたりは
兄弟であるらしく

たがいに場を
譲り合っていたのですが

いやしい火焚きに
舞は踊れないのだろうと
嘲笑されると

兄がさっと立ちあがり
舞を披露したといいます。

これがじつに見事な舞で
みな度肝を抜かれたようです。

つづいて、こんどは弟が
歌を詠ったそうです。

美しく気品あふれる歌に
国司たちもみな驚いて
聞き惚れていると

その歌のおわりに
童子はこう詠ったといいます。

所治賜天下
伊邪本和氣天皇之御子
市邊之押齒王之
奴末

古事記 下巻
(わたしたちは)
天下を平らけく治めた

イザホワケの天皇
[第17代・履中天皇]の御子

市辺押磐皇子の
子孫[皇子]である

これを聞くと
国司は驚きのあまり
床から転げ落ちて

すぐさま
朝廷に知らせたようです。

こうして、2人の皇子は
朝廷に迎えられたといいます。

麓神社の神木

古事記によれば、このとき
清寧天皇はすでに崩御しており

オケ・ヲケ兄弟の姉(叔母?)・
飯豊皇女(いいとよのひめみこ)
政治を執っていたといいます。

親族であり
皇位継承権をもつ皇子が
生きていたという知らせに
朝廷も沸きたったようですね。

いつでも、
ともに譲り合う兄弟であり
即位のさいにも兄・オケは

「弟のおまえが名乗らなければ
わたしたちが朝廷に
復帰することはなかった
これはおまえの功績だ」

といって、まずは
弟に皇位を譲ったといいます。

弟がさきに即位して
第23代・顕宗天皇となり

兄がそののちに
第24代・仁賢天皇となった
ようですね。

梺明神社

麓神社は江戸時代には
三宝荒神社(さんぽうこうじんしゃ)
と名のっていたといいます。

それが、1874年に
梺明(ふもと)神社
にかわったそうです。

「荒神」も「梺明」も
オケ・ヲケ兄弟が身をやつした
『火焚き』に関わるのでしょうか?

故燒火少子二口
居竈傍

古事記
火焚きの童が2人
竈のそばにいた

命居竈傍
左右秉燭

日本書記
竈のそばに座らせて
あちこちに火を灯させた

古事記・日本書紀では
『火焚き』は
卑しいものがする仕事

老人か童子であることが
おおいのだそうです。

麓神社では、例祭の
飯遣福(いいやりふく)祭
が行われるといいます。

オケ・ヲケ兄弟が
丹後を旅立つときに

赤飯を献じたことに
由来するらしく

お供えした赤飯は
祭典後に参列者で
分け合うのだそうです。

ここにも、なにか
「火焚き」や「竈」が
関わっていそうです。

麓神社の本殿

雄略天皇

オケ・ヲケ兄弟の
父親をだまし討ちして

転落人生に追いこんだ
雄略天皇は

たしかに、
荒々しい性格の持ち主
として描かれるのですが

政治手腕としては
評価されてもいるらしく

大悪天皇・有徳天皇という
真逆の名があるそうです。

大和葛城山で
葛木一言主(かつらぎひとことぬし)
に出会ったという記述も

有力氏族であった
葛城(かつらぎ)氏との
関係をしめすものらしく

雄略天皇によって
葛城氏は滅亡していった
というようです。

しかし、雄略天皇は
葛城韓媛(かつらぎのからひめ)
という葛城氏を娶っていて

このかたの子が
第22代・清寧天皇となり
あとを継いだようですね。

オケ・ヲケ兄弟の母親も
葛城氏の荑媛(はえひめ)
だったといいます。

また、
姉(叔母)の飯豊青皇女が
政治を執っていたのも

葛城にある
角刺宮(つのさしのみや)
だったといいます。

麓大神の扁額

さらに、
伊勢外宮の社伝では

雄略天皇の夢枕に
天照大神があらわれたので

丹波国から
豊受大神を呼びよせた
といいますし

京丹後の浦島伝説にのこる
浦嶋子が生きていたのも
雄略天皇の時代だった

といいますから

京丹後と
雄略天皇との関係も
深いようですね。

麓神社の池の鯉

とはいうものの、
父の仇である雄略天皇を

弟・ヲケは
許せなかったらしく

復讐に駆られて
雄略天皇の墓を
壊そうとしたようです。

すると、兄のオケが
その役を担ったといいます。

しかし、
兄・オケの帰りが早かったので
弟・ヲケが問いただすと

兄は
「陵のかたわらの土を
少しだけ掘り返してきた」
と答えたそうです。

「なぜ、ことごとく破壊して
父の仇に報いないのですか」
と問いつめる弟に

「たしかに
恨みの深い相手ですが

それでも
血の繋がる親族です。

また天下を治めた
大君でもあります。

父の仇に報いるために
大君の陵を壊してしまえば

かならずや後の世の人々から
あざけりを受けるでしょう。

すこし掘り返すという
辱めだけで充分です」

と返したようですね。

弟・ヲケは
すっかり感服して

それ以上
墓を壊すことは
なかったといいます。

そうして、兄弟は
所在がわからなくなっていた
父の骨を見つけ出すと
手厚く葬ったそうです。

麓神社の神木

仁徳天皇

兄・ヲケこと
第24代・仁賢天皇の子が

第25代・
武烈(ぶれつ)天皇
となります。

しかし、
第23代・顕宗天皇も
第25代・武烈天皇も
子が生まれなかったらしく

第16代・
仁徳(にんとく)天皇
の系譜は途絶えた
ようです。

ここからは、
第15代・
応神(おうじん)天皇
までさかのぼって

血筋をたどってゆき
第26代・
継体(けいたい)天皇
が即位することとなります。

仁徳天皇の系図

オケ・ヲケ兄弟の
祖先にあたるということで

麓神社では
第16代・仁徳天皇こと
大鷦鷯尊(おおささぎのみこと)
も祀られているようです。

所在地

〒629-2243
京都府宮津市難波野

京丹後めぐり8

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京丹後めぐり
京都の北にある丹後半島周辺をめぐります。

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