検証ほつまつたゑ
ホツマツタヱ研究の専門同人誌・
『検証ほつまつたゑ よみがえる縄文叙事詩』の
第117号(令和3年10月号)に
掲載していただきました!
ありがとうございます!
とてもとてもうれしいです!!
今回は、
ヤマクイ(大山咋神)
についてまとめた記事です。
こちらも、手直しして
以下に全文掲載します。
近江国のヤマクイ考
大山咋神
滋賀県・大津の
日吉(ひよし)大社や
京都府・嵐山の
松尾(まつお)大社では
大山咋神(おおやまくい)
が祀られています。
古事記にも
坐近淡海國之日枝山
古事記
亦坐葛野之松尾
とあり、
大山咋神を祀る信仰は
古いようです。
とくに、松尾大社では
秦(はた)氏の氏神
とされるようですね。
しかし、大山咋神が
どのような神であるのかは
記紀(古事記・日本書紀)にも
残されていないようです。
日吉大社
ホツマツタヱでは
天照大神の孫・
ニニキネ(瓊瓊杵尊)
の世にあらわれて
なんぢヤマクイ
ホツマツタヱ
やまうしろ のおほりつちお
ここにあげ おおひのやまお
うつすべし
と命じられたらしく
ヤマクイ(大山咋神)は
京都盆地の開拓を行ったようですね。
一大事業を
1枝(ひとえだ・60年?)
で遂げたことから
土砂で築いた山を
日枝山(ひゑのやま)
といい、
日枝山の背(うしろ)
にあることから
京都盆地を
山背(やましろ・山城国)
といったようです。
「日枝山(ひゑのやま)」が
「比叡山(ひえいざん)」となり
「日枝(ひゑ)」が
「日吉(ひよし)」となって
「日吉大社」では
比叡山を築いたヤマクイが
祀られたようです。
大津シノ宮
ヤマクイは
ニニキネ(瓊瓊杵尊)
[天照大神の孫]についで
ウツキネ(山幸彦)
[天照大神の曾孫]にも
つかえたらしく
ウツキネの行幸のさいは
ウツキネの居城である
「大津シノ宮」を
あずかっていたようです。
ウツキネが九州で
兄弟喧嘩のもととなった
釣り針を見つけだすと
ヤマクイは、ウツキネの兄・
サクラギ(海幸彦)のいる
ウカワ宮まで訪ねてゆき
『まちち』 (待ちなさい・貧相な釣針だ)
といってのけ
『こまばいにわびことあれ』 (四肢をついて謝りなさい)
とまでいったそうです。
ヤマクイは
皇族にも発言権をもつ人物
だったのでしょうか?
「オキツボの峰」
ともいわれる比叡山は
天照大神以前の
天七代(あめななよ)の時代から
国の中心だったといいます。
「オキツボの峰」の
威光を高めたヤマクイは
比叡山や京都盆地を治める
豪族となっていたのかもしれません。
ワカヤマクイ
ウツキネ[天照大神の曾孫]から
ウガヤフキアワセズ(鸕鷀草葺不合尊)
[天照大神の玄孫]の朝廷にかわったとき
ヰツセ皇子の乳母となる
タマヨリヒメ(玉依姫命)を
迎えにいったのも
ワカヤマクイ
だといいます。
ワカヤマクイが
ヤマクイの子孫なのか
同一人物なのかは
わかりませんが
朝廷の「勅使」として
派遣されたといいますから
ウガヤ朝でも重用された
「ヤマクイ」がいたようです。
玉依姫命
タマヨリヒメは
白羽の矢によって
神の子をはらんだといわれ
高野(たかの)の森に
隠れ住んでいたといいます。
これが、
比叡山の西麓にある
御蔭(みかげ)神社
だそうです。
山城国風土記にも
丹塗矢伝説としてのこり
下鴨(しもがも)神社と
御蔭神社のあいだには
「御生(みあれ)神事」が
いまでも続いているようです。
賀茂別雷神
上賀茂(かみがも)神社では
丹塗りの矢によって
タマヨリヒメの産んだ子が
祭神・
賀茂別雷神(かもわけいかづち)
とされるようです。
ホツマツタヱによれば
「ワケイカツチ」とは天孫・
ニニキネのことであり
タマヨリヒメをはらませたのは
ニニキネの御霊だといわれます。
これが、
比叡山の東麓にある
日吉大社になると
父親は大山咋神(ヤマクイ)
であり
ヤマクイとタマヨリヒメの子が
賀茂別雷神だといいます。
ヤマクイとタマヨリヒメの
婚儀・出産を祝う儀式が
山王祭(さんのうまつり)
だそうです。
ヤマクイが
比叡山や京都盆地を
治めたとすると
鴨川の河合の
タマヨリヒメと結ばれて
夫婦となったのも
うなずける気がします。
だからこそ、
高野の森に隠れていた
タマヨリヒメは
「ワカヤマクイ」によって
入内したのかもしれません。
あるじのおけ
ホツマツタヱには
しらはのやきて
ホツマツタヱ 27アヤ
のきにさす あるじのおけの
ととまりて おもはすをのこ
うみそたつ
とあり、
「白羽の矢」が軒に刺さったあと
「あるじのおけ」がとどまって
タマヨリヒメは
男児をはらんだといいます。
「あるじ」というのが
「ヤマクイ」だったのでしょうか?
つづけて、
みつなるときに
ホツマツタヱ 27アヤ
やおさして ちちというとき
やはのほる わけいかつちの
かみなりと よになりわたる
とあり、
ひとびとはこれを
「ワケイカツチ神(ニニキネ)にちがいない」
と噂したのかもしれません。
秦氏
ところで、
古事記によると
ヤマクイは
大歳神(おおとし)の子
だといいます。
ですから、
ソサノヲ(素戔嗚尊)の孫
にあたるようです。
しかし、それでは
秦氏の氏神とされる
理由がわかりません。
秦(はた)氏といえば
平安京の造営にかかわった
といわれ
平安京遷都以前から
京都盆地に暮らしていた
渡来系氏族だといいます。
日本書紀では、第15代・
応神(おうじん)天皇の世に
大陸から渡ってきたとされるようですが
各地には、それ以前からの
交流のあともあるようです。
日吉大社と松尾大社は
平安京の鬼門と裏鬼門を守る社
といわれていて
2社の磐座(いわくら)を結ぶラインは
平安京の内裏を通るともいいます。
秦氏といえば、
伏見稲荷(ふしみいなり)大社の
祭祀にも関わったといいます。
比叡山(日吉大社)と
松尾山(松尾大社)と
稲荷山(伏見稲荷大社)を結ぶ線は
巨大な直角三角形を描く
というのもとても面白いです。
さらに、
上賀茂神社の神山と
松尾大社の松尾山と
日吉大社の八王子山を
結ぶ三角形は
神山から
角の二等分線をのばすと
下鴨神社を通るようになっています。
これらの図形も
盛り土によって
山頂位置をずらすことで
意図的に作り上げたのかもしれませんね。
賀茂氏
京都盆地を守護する
2つの三角形は
秦氏の神社だけでなく
賀茂(かも)氏の神社も
通っていることから
日吉大社にのこる
ヤマクイとタマヨリヒメの婚姻は
秦氏と賀茂氏の婚姻関係までも
表しているのかもしれません。
さらに、京都造営には
出雲(いずも)族も
関わっているらしく
亀岡の出雲大神宮と
秦氏の愛宕神社(愛宕山頂)と
賀茂氏の上賀茂神社は
一直線で並んでいる
というのも興味深いことです。
稲荷信仰
京都の秦氏の地は
『カダ』の治めた地とも重なるようです。
「カダ」とは、ハタレの動乱で
『キクミチ』を鎮めたかたです。
敵の首領の三兄弟
『ミツキツネ(三狐)』は、
カダの祖先・
ウケモチを祀ることで
助命されたといいます。
これが、のちの
伏見稲荷大社となるようですね。
さらに、
葛野(かだの)郡とは
カダの地でもあり
京都嵐山の松尾大社も
葛野郡だったようです。
嵐山には「太秦」もあるように
「秦」氏の拠点だったようですね。
ですから、もしかすると、
キクミチの氏族の子孫が
『ヤマクイ』であり、
この子孫が、
「秦氏」となったり
「秦氏と交わった」
のではないでしょうか?
だからこそ、
「ヤマクイ」は「秦氏の氏神」
なのかもしれません。
最澄
さらに、
想像力を膨らませるなら
比叡山延暦寺をひらいた
日本の天台宗の開祖・
最澄(さいちょう)もまた
この一族の
末裔かもしれません。
最澄の家系は
「三津首(みつのおびと)」
というそうですが
「三狐(みつきつね・三つ彦)」
とも繋がりそうです。
最澄が産まれたのは
日吉大社の参道にある
生源寺(しょうげんじ)
だといいます。
比叡山延暦寺は
日吉大社の大山咋神を
地主神・鎮守神としたといいます。
大山咋神のことを
山王(さんのう)権現というのも
神仏習合の名残であり
唐の天台宗の
総本山に祀られていた
「山王元弼真君」
からきているそうです。
八王子山
さいごに、
日吉大社の神体山は
八王子山(はちおうじやま)
というのですが
「トホカミヱヒタメ」の
8皇子の名残りを
みることができそうです。
『ひゑのやま』というからには
「ヱ」の尊だけでなく
「ヒ」の尊も関わるのでしょうか?
数年前までは
登拝できたのですが
いまでは、神域として整地され
立入禁止になっているようです。
(おわり)
覚書き
ご拝読ありがとうございます。
謎のおおい古代氏族・
秦(はた)氏をおいかけるうち
秦氏の奉斎する
ヤマクイ(大山咋神)に
秘密があるのではないか?
と考えるようになりました。
そこで、ホツマツタヱから
ヤマクイにせまってみようと
試みました。
ここから、
秦氏や稲荷信仰など
まだまだ話は広がりそうです。
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