息長族・神功皇后ツアー
社会派イラストレーターで
縄文の女神の叡智を伝える
牛嶋浩美さんと
わたくし
NAVI彦が同行する
旅企画の第2弾です。
第1弾は
旧暦のひな祭りに
日吉大社お花見ツアー
を行いました!
今回は
秋分の息長族・神功皇后ツアー
~琵琶湖湖東・伊吹山麓の女神の降臨~
と題しまして
謎の古代氏族
息長(おきなが)氏
を追いかけるため
2025年9月23日
秋分の日に
息長氏の本拠地である
滋賀県米原市を巡りました。
息長氏
息が長いということから
琵琶湖に暮らした海人族であるとか
長く生きられるという
健康や薬草に長けた一族であるとか
息(風)を吹き込んで
鉄を溶かしていた製鉄民であるとか
さまざまな説がある氏族です。
滋賀県米原市あたりを
本拠地としていたらしく
関東と関西を結ぶ
要衝の地をおさえていた一族
ともいえるようです。

第14代・仲哀天皇の后である
神功皇后(じんぐうこうごう)
は本名を
息長足姫(おきながたらしひめ)
といい息長氏の娘でした。
また
第26代・継体天皇の出自にも
息長氏が深く関わっています。
第30代・敏達天皇は
息長氏の娘である
広姫(ひろひめ)
と結ばれたことで
のちの
舒明・天智・天武天皇
へと繋がってゆきました。

皇室と関係をもつことで
絶大な勢力をほこった
息長氏ですが
なんらかの理由によって
衰退・没落していったらしく
いまではその痕跡も
神社や史跡のなかにしか
見つけられず
謎に包まれてしまいました。
日撫神社
米原駅に集合して
そこからは車移動で
米原市の顔戸(ごうど)
へと向かいます。
途中で
天野川を越えるのですが
ここもかつては
息長川といったそうです。
まずは
日撫山の麓にある
日撫(ひなで)神社
を参詣しました。

平安時代にまとめられた
延喜式神名帳にも残る古社です。
日撫山は
ご神体山であるらしく
琵琶湖からみれば
日が山を撫でながら昇る
ことに由来するともいうようです。


こちらでは
宮司さんにご案内いただき
正式参拝もいたしました。

ご祭神は
少毘古名命(すくなひこな)
應神(おうじん)天皇
息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)
となっています。
息長氏の拠点のひとつ
と考えられる地であり
伝承によれば
三韓征伐より帰った
神功皇后が
少毘古名命とともに
父・息長宿弥王を祀ったのが
創祀とされているようです。
また、
神功皇后出生の地
ともいわれることから
かつてはこのあたりに
息長氏の邸宅があった
のかもしれませんね。
応神天皇の合祀は
後鳥羽上皇の時代といいますから
鎌倉時代のことでしょう。
このときから
角力神事もはじまったようです。

拝殿で宮司さんによる
祝詞が唱えられたあと
参加者一同による
アワウタの奏上も行われました。
ホツマツタヱに残る歌を
神社で正式に唱えるこができる
というのは大変な喜びです。

また宮司さんには
境内の案内もしていただきました。
力比べに使われた
磐座のはなしや
日撫山の話など
どれも興味深いもの
ばかりでした。


ぼくもひとつ気になったので
質問させていただきました。
明治初期にまとめられた
神祇志料という研究書には
後漢需帝4世孫の
阿智使臣(あちのおみ)
の一族の後裔とされる
山田造(やまだのみやつこ)
火撫直(ひなでのあたい)
の2氏が祖先を祀ったのでは?
とあるそうです。
それについては
どのようにお考えですかと
訊いてみましたら
もちろん立場上
はっきり返すことはできないものの
そうゆう説もあるという
やや否定的なお考えのようでした。
いまぼくが住んでいる
大阪府池田市には
阿知使主の墓所である
猪名津彦神社がありますので
そんなご縁を感じて
質問させていただきましたというと
宮司さんもすこし
ほっとされていらっしゃいました。


日撫山周辺にも
たくさんの古墳があり
息長氏ゆかりの方がたが
おおく眠っているようです。
山津照神社
日撫神社から
2キロほど南東へゆくと
山津照(やまつてる)神社
があります。


こちらも
延喜式神名帳にのこる
近江国坂田郡の式内社です。
現在のご祭神は
国常立尊(くにとこたち)
となっていますが
もとは息長氏が
祖先を祀っていたようです。

境内には
山津照神社古墳があり
神功皇后の父・
息長宿禰王の墓である
ともいわれています。

全長46.2mある
前方後円墳で
息長氏の首長墓であると
考えられるようです。
ここでもしっかりと
ご挨拶させていただきました。

さらにさらに
神輿蔵?宝物庫?の裏手には
巨大な磐座もありまして
とてもとても
パワフルな場所でございました。

青木神社
山津照神社の丘陵の
南麓あたりには
境内社の
青木(あおき)神社
があります。

由緒は不明なのですが
青木氏ゆかりの地といわれ
ちかくには
青木館などもあります。
山津照神社も中世には
青木宮と呼ばれていたようです。

巨大な岩壁がせり出しており
とても気のいい場所であるようで
みなさんも存分に
味わっておられました!

昼食会
お昼はふたたび
米原駅までもどって
鮨ふもとさんで
御前をいただきました。



とても美味しい時間でした。
こちらでは昼食のあとに
牛嶋浩美さんと
米原市在住で
神功皇后にご縁のある
角川美恵子さんと
わたくしNAVI彦による
3人のフリートークが行われました。

息長氏が
どういった方がたなのか
さらに
ホツマツタヱからみると
なにが変わるのかを
系図をお渡しして
ざっくりと説明しました。

これは以前に
検証ほつまつたゑ誌にも
掲載したものです。
漢字で書いてあるのは
記紀の名であり
カタカナ表記が
ホツマツタヱに残る名です。
ホツマツタヱ的に
とても興味深いのは
ヤマトタケ(日本武尊)と
オトタチバナ姫のあいだに産まれた
イキナガタワケ(息長田別王)
というかたです。
この子孫がのちに
継体天皇の血縁として
繋がってゆきます。
またホツマツタヱでは
オトタチバナ姫は
アメノヒボコ(天日矛)の子孫
にあたるというのも面白いところです。
神功皇后の母方は
アメノヒボコの子孫
といわれているのですが
ホツマツタヱからみても
息長氏には
アメノヒボコが深く関わるようです。
広姫陵
日撫山から
鳥羽上山や横山にかけてを
横山丘陵というようですが
こちらはまさに
息長氏の山といえます。
横山丘陵の北麓に
敏達天皇皇后廣姫息長陵
があります。

第30代・
敏達(びだつ)天皇の后となり
押坂彦人大兄皇子
(おしさかのひこひとのおおえのみこ)
を産んだかたです。
この皇子の子や孫が
舒明天皇や斉明天皇にあたり
天智天皇や天武天皇へと
繋がってゆきます。

息長陵のとなりには
真宗大谷派の光運寺があり
阿弥陀如来を
祀っているといいます。
こちらの境内にも
古墳があるのですが
じつはこちらのほうが
広姫さまの本当の陵墓
ともいわれるようです。

伊吹山もこちらを
見おろしているかのようです。
天満神社
広姫陵より
横山を越えた西側にも
古墳群がひろがっています。

ここもまた
息長氏の重要な地だったようです。
地名の
垣籠(かきごめ)は
神功皇后の祖父にあたる
迦邇米雷王(かにめいかづちのみこ)
由来になっているそうです。
また
垣籠古墳やオサキ山古墳は
若沼毛二俣王の墓所ともいわれ
神功皇后の孫であり
応神天皇の子が
ここに眠っているようです。

そんな横山のふもとに
天満(てんま)神社
があります。
平安時代おわりごろ
空からふたつの光が
横山に飛来してきたらしく
その堕ちてきた石を
ご神体にしていることから
飛来天神と称されたようです。
山上の磐座には
神代文字が残るそうですが
登拝する時間はありませんでした。


とはいえ
なにかを感じたみなさまは
ここでめいめい
祈りをあげておられました。

坂田宮
息長氏とはあまり
関係はないかもしれませんが
倭姫命(やまとひめ)
ゆかりの
元伊勢である
坂田神明宮(さかたしんめいぐう)
にも参詣しました。

JR北陸本線が
境内を通り分断しているという
ほかではあまりみない神社に
びっくりしました。
当初は東向きの社殿だったようですが
電車が通るということもあり
現在は
南向きの社殿になっているようです。


元伊勢の伝承地である
坂田宮(内宮)と
近江国坂田郡の式内社である
岡神社(外宮)からなるようです。
坂田郡の総社
でもあるといいます。
伊勢神宮の御厨が置かれた地
でもあるようです。

岡神社は
第6代・孝安天皇の代に
宇賀野魂命(うかのみたま)
が降臨したことに由来するらしく
その関係もあって
同じく豊穣の神である
豊受毘売命(とようけびめ)
を祀っているようですね。

『倭姫命世記』によると
垂仁天皇8年
甲可日雲宮(こうがのひくものみや)
につづいて遷座した地であり
天照大神の御霊を
2年ほど奉斎したといいます。

境内にある
橘?柑橘系の実が
とても見事でした。
琵琶湖周辺といえば
米処としても有名であり
大嘗祭のときに捧げられる
悠紀斎田の地とされることがおおく
やはり
特別なものがあるのでしょうね。

息長宿禰王像
243号線の
顔戸(ごうど)交差点ちかくには
『豪族息長氏郷聚碑』
とともに
息長宿禰王像
が立っています。

ここもまた
神功皇后の出生地
といわれるらしく
息長宿禰王像は
産まれたばかりの娘
神功皇后を抱いた姿
となっています。

右手の杖には
蛇が巻きついているのですが
この地方では白蛇は
守護神とされているようです。
おそらくこれは
伊吹山の神である
伊吹戸主が蛇の姿であらわれた
という事に由来するのでしょう。

またここには
「天日槍暫住」と書かれた
石碑もあるのですが
これは日本書紀に
『北入近江國吾名邑而暫住』
とあり
この地(吾名村)に
渡来人であるアメノヒボコが
やってきてしばらく住んだ
という記述によるようです。

神功皇后の母である
葛城高顙媛の祖先は
アメノヒボコといわれています。
そんな祖先が暮らした地で
母は息長氏と結ばれて
神功皇后を産んだ
ということなのでしょうか。

この旅の祝福をするかのように
バッタちゃんが遊びに来てくれました。

あまりにじっとうごかないので
息長氏のかたがたが
喜んでいるかのようだと
みなで言い合っておりました。
こうしてバッタと
息長宿禰王の像ともに
今回の旅はおわりを迎えました!
(おわり)



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