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難波めぐり1 難波神社

難波神社の拝殿大阪

難波神社

大阪市中央区の
周辺をめぐります。

まずは
摂津国総社ともいわれる

難波(なんば)神社
からはじめます。

難波神社の看板

難波大宮
難波上宮
上難波神社

ともいわれるようです。

6月には
あやめ祭(菖蒲神事)
があり

ご神紋は
抱き菖蒲(だきあやめ)
となっています。

難波神社のあやめ紋

反正天皇

第16代・
仁徳(にんとく)天皇
を祀る神社です。

仁徳天皇の子にあたる
第18代・
反正(はんぜい)天皇
が父帝を祀った社
だといいます。

ですから当初は
反正天皇の宮跡といわれる

柴籬(しばがき)神社
のあたりにあったようです。

現在地からは
南東に13キロも
離れています。

難波神社のご由緒

豊臣秀吉

平安時代の中頃には
大阪上本町駅のあたりに
遷座したようです。

このときに
素戔嗚尊(すさのお)
が合祀されたといいます。

戦国時代のおわりには
豊臣秀吉の命によって
現在地に遷座したようです。

大阪城の三の丸を造営するさい
城内となった

渡辺(わたなべ)や
玉造(たまつくり)の町人は

船場(せんば)へ
移転させられたといいますが

当社も町人とともに
船場の地へ遷されたようです。

さらに、江戸時代の
大坂夏の陣の後には

江戸幕府から
境内地の9割を没収
されたといいます。

はじめは広い社地を
持っていたのでしょう。

難波神社の鳥居

博労稲荷神社

境内には
博労(ばくろう)稲荷神社
が祀られています。

船場に暮らす商人の
信仰が篤い神社だといいます。

伏見稲荷大社からの
勧請であり

大阪屈指のお稲荷さん
ともいわれるようです。

難波神社の博労稲荷神社

「博労」は
「馬喰(ばくろう)」
「伯楽(ばくろう)」
からきているといわれ

江戸時代に栄えた
馬や牛の仲買人のこと
だといいます。

これは
秦の皇帝に仕えたとされる

「伯楽(はくらく)」という
仙人が由来だそうです。

馬の目利きや調教
獣医に優れていたらしく

育てた名馬が天を昇った
という伝説もあることから

いまでも優れた指導者のことを
「名伯楽」といったりします。

難波神社の博労稲荷の奉賛会

難波神社の地は
博労町といいますから

牛馬の仲買商人が
暮らした地なのでしょうか?

人形浄瑠璃

江戸時代には境内に
人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)
の芝居小屋があったそうです。

西宮(にしのみや)神社
百太夫(ひゃくだゆう)神社
で祀られていた

人形遣い・
傀儡師(くぐつし)の一団
と関わりがあるようです。

かれらは
淡路に移り住んだのち

難波神社へやってきたらしく
これが現在の
文楽(ぶんらく)
に繋がるようです。

難波神社と文楽の由緒書き

ところで淡路島の
洲本八幡神社には
タヌキの伝説があり

日本三名狸といわれる
芝右衛門(しばうえもん)
という狸は

海をわたって
道頓堀の芝居小屋を
観に行っていたといいますが

ここにもなにか
繋がりがあるのでしょうか。

上町台地

縄文時代のはじめに
海面が上昇していたさい

大阪平野には
河内湾(かわちわん)
という

巨大な湾が
ひろがっていたといいます。

大阪城のあたりから
住吉大社のあたりまでは

上町台地(うえまちだいち)
といわれる高台になっていて

河内湾に突き出た
岬のようになり
湾口部を築いていた
ようです。

やがて
湾口部が狭まると
淡水化して

弥生時代には
河内湖(かわちこ)という
湖になったといいます。

さらに
水もひいて縮小すると

古墳時代以降には
草香江(くさかえ)
ともいわれたようです。

古代大阪の変遷|水都大阪
古代大阪は、海岸線が平野部まで深く入り込み、上町台地が半島のように突き出し、その東に河内湾と呼ばれる内海が広がっていました。

難波

難波(なんば)
という言葉の由来は
諸説あるといいます。

難波神社の
現在の鎮座地でもある
上町台地の西の麓は

浅海であり
魚もおおかったことから
「魚(な)庭(には)」
といっていたのが
転じたともいうようです。

また
潮の流れが速いことから
「浪(なみ)速(はや)」
といっていたのが
転じたともいうようです。

いずれにせよ
海に関わる言葉では
あるようですね。

難波神社のことひら社
難波神社のことひら神社の由緒

古事記・日本書紀には
「浪速」

ホツマツタヱにも
「ナミハヤ」として登場します。

初代・神武(じんむ)天皇
東征をおこなったさいには
このような記述があります。

      はやなみたつる
みつみさき なもなみはやの
みなとより やまあとかわお
さかのぼり

ホツマツタヱ 29アヤ

上町台地で狭まった
河内湖の湾口部のあたりは
波も早かったらしく

これによって
「ナミハヤ」といわれていた
ようですね。

またどうやら当時から
港(みなと・水門)でも
あったようですね。

上町台地の西の地を
「ナミハヤ」といったのが
「難波」に転じた
といえそうです。

難波神社の拝殿

生國魂神社

反正天皇が
父帝を祀ったのは

大阪府松原市にある
柴籬神社のあたりですから

おそらく当初は
「難波」という社名では
なかったのでしょう。

平安時代には
上町台地のうえに
遷座したようですが

その地は父帝・
仁徳天皇の宮跡である
高津宮(たかつのみや)
があったとされる地です。

仁徳天皇の宮跡ちかくに
仁徳天皇を祀ったのでしょう。

豊臣秀吉による
大阪城築城のさいに

難波神社は
現在地へ遷座した
といいますが

大阪城築城のさいには
他にもおおくの神社を
遷座させています。

たとえば、
生國魂(いくくにたま)神社
はもともと

大阪城の地に祀られていた
といいますが

大阪城築城のさいには
高津宮の南に
遷座させられたそうです。

もしかすると、このとき
生國魂神社が遷座させられた地
というのが

難波神社の旧鎮座地
ではないでしょうか?

生國魂神社には
難波大社の別名もあるようです。

所在地

〒541-0059
大阪府大阪市中央区博労町4丁目1−3

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