楠永神社
御霊神社から
700メートルほど
南西にゆくと
楠永(くすなが)神社
があります。
樹齢300年以上ともいわれる
2本の楠を祀る神社です。

御霊神社の前身である
圓神祠(つぶらしんし)は
このあたりにあったといいます。

圓江
大川(旧淀川)
にもちかいこのあたりは
平安時代には
いくつもの島がならぶことから
八十嶋(やそしま)
といわれていたそうです。
そのなかの
百済(くだら)洲
という島には
圓江(つぶらえ)
という円形の入り江があり
圓神祠(つぶらしんし)
という社があったといいます。

圓神祠では
瀬織津比売神(せおりつひめ)
をはじめ
津村郷の産土神である
津布良彦神(つぶらひこ)
津布良媛神(つぶらひめ)
が祀られていたといいます。
これらのご祭神は
江戸時代にはいる前に
御霊(ごりょう)神社へ
遷座したそうです。
圓神祠のあった場所は
不明とされているのですが
楠永神社のあたりに
あったのではないかと
いわれており
境内には
御霊宮旧蹟の碑があります。

百済洲というのは
第16代・
仁徳(にんとく)天皇の時代に
朝鮮半島の
百済国からの渡来人が
暮らしていたことに
由来するようです。
南隣には
新羅国からの渡来人が
暮らしたという
新羅(しらぎ)洲もあります。
靭公園
楠永神社は
靭(うつぼ)公園
のなかにあります。

おおよそ
10ヘクタールほどの
長方形の敷地には
ケヤキ並木や
バラ園が広がるほか
テニスコートや
大阪科学技術館もあり
ビルの立ち並ぶ
大阪中央区のなかでは
都会のオアシス
ともいえるような
空間となっています。
東西に細長く
延びており
なにわ筋によって
東園と西園に分かれています。

豊臣秀吉
淀川河口にあった
いくつもの島は
平安時代以降にも
ながい時間をかけて
河川によって運ばれる
土砂などによって
陸地化していったようです。
とはいえ
河川の氾濫などもおおく
水運にも
障害が出ていたといいます。

安土桃山時代には
大阪城を築くにあたって
豊臣秀吉(とよとみひでよし)
が治水を行ったといいます。
こうして
水の都として発展する
基盤ができたようです。
古代より
百済洲の地には
船着場があったらしく
これが
船場(せんば)の由来
ともいわえるのですが
豊臣秀吉の時代になると
船場は城下町として
栄えたといいます。
ところがこのとき
船場は荷下ろしの便が悪く
塩干魚(えんかんぎょ)
の商人たちは
この地に遷ってきたそうです。
これにより靭の地は
塩干魚の市場として
発展したといいます。
魚商人たちが
「やすい、やすい」という
声を掛ける姿に
豊臣秀吉は
「やす(矢の巣)とは
靭(矢を入れる道具)のこと」
といったので
それにあやかってこの地を
靭(うつぼ)
というようになったそうです。
とはいえ
ホツマツタヱ的にみれば
圓江という
円形の入り江に合わせて
ヲシテ(文字)の
ア母音の形である
「〇(ウツホ)」に掛けて
「靭(ウツボ)」としたのだろう
と思ってしまいます。
永代濱
当時は
食用の塩干魚だけでなく
有機肥料として魚を乾燥させた
干鰯(ほしか)の需要も高く
大変賑わっていたようです。
そこで靭の地には
荷揚げのため新たに
海部堀川(かいふぼりがわ)
という掘りが開削されました。
なかでも荷揚げの地は
永代濱(えいだいはま)
といわれたようです。
この永代濱の地も
楠永神社のちかくであり
ちいさな境内には
永代濱跡の碑もあります。

楠永神社という社名も
巨木の「楠」と
永代濱の「永」から
とっているといいます。

靱飛行場
江戸時代以降は
300年に渡って
靱塩干魚市場として
干物や干鰯などの海産物を
全国から集めていたそうです。
しかし
1931年になると
大阪市中央卸売市場が開かれ
靭塩干魚市場は
閉鎖されたといいます。
1945年には
大阪大空襲で焼け野原となり
終戦後は
占領軍に接収されて
飛行場となったそうです。
1952年には返還されて
土地の復興整備が行われ
1955年に
靭公園が開園したといいます。

白蛇
楠永神社の楠は
永代濱が開かれたときより
すでにこの地にあったらしく
大阪大空襲でも
焼け残ったといいます。

占領軍の接収後に
飛行場となったさいにも
伐られずに残ったといいます。
一説には
作り話をして難を逃れた
ともいうようです。
この楠の根本には
白蛇が住んでおり
塩干魚商人の丁稚が
悪戯をしたところ
その夜に急に熱がでてしまい
「巳(みい)さんごめん」
といいながらなくなった
そこで祠を作って蛇を祀った
というような話をしたところ
残されたといいます。
実際に
1928年の河岸工事のさい
楠の根本から
白蛇がでてきたらしく
伝え聞いた人々が
参拝するようになり
近隣の有志が祠を作って
楠永大神・楠玉大神
を合祀した
といわれるようです。
いずれにせよ
この2本の楠の古木は
伐られずにこの地に残り
地元のシンボルとして
愛されているようです。

塩干人形
かつて7月の例大祭では
塩干人形が飾られていたといいます。
これはもともと
圓神祠ととも祀られていた
住吉神社に由来するものであり
永代濱の
住吉祭(人形祭り)では
菊人形の代わりとして
塩干人形が飾られたようです。
圓江にあった住吉神社は
港区にある港住吉神社に
合祀されているのですが
遷座ののちもしばらくは
楠永神社の例大祭のなかに
残されていたようです。
人形は
衣裳も材料もすべて
塩干魚からできており
その年に人気のあった
芝居や小説の主人公を
等身大に再現することで
祭りの見物客を
楽しませていたといいます。
ただし
塩干魚類でできているので
会場には臭いがたちこめ
蝿が飛び回っており
見物客は
団扇で蝿をたたきながら
歩きまわっていたようです。
しかしいまでは
塩干人形の作り手もなくなり
この祭りも
途絶えてしまったといいます。

白蛇の縁によるのか
ご神紋も
三つ鱗(みつうろこ)
となっています。
その他
2016年ごろには
靭公園の近くで働いており
お昼になると毎日
職場から逃げるようにして
靭公園にやってきては
お昼を食べたり
ぶらついたりしていました。
すごく気の和らぐ場所で
とても救いになっていました。
当時はホツマツタヱも
瀬織津姫さまのお名前も
知らない身だったのですが
こうして知らず知らずのうちに
恩恵をうけていたのだなと
改めて感謝の気持ちで
いっぱいになりました。

所在地
〒550-0004
大阪府大阪市西区靱本町2丁目1
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