御霊神社
坐摩神社より
700メートルほど
北へゆくと
御霊(ごりょう)神社
があります。
天照大神荒魂
(あまてらすおおみかみのあらみたま)
として
瀬織津比売神(せおりつひめ)
を祀るという
ホツマツタヱ好きには
たまらない神社です。

瀬織津姫
瀬織津姫といえば
大祓詞(おおはらい)
に登場する謎の女神です。
祓戸四神のひとり
とされていて
四神あわせて
祓戸大神(はらえどのおおかみ)
ともいわれます。
ホツマツタヱでは
男神・天照大神の
正后(まきさき)であり
世継ぎ御子を産んだ
正妻・正室です。
天照大神に正面から
向かうことのできた方
ということで
向津媛(むかつひめ)
という神名もあります。

兵庫県にある
廣田(ひろた)神社では
向津媛として
祀られていました。
また六甲山にある
六甲比命(ろっこうひめ)神社
は瀬織津姫の墓所といわれ
巨大な磐座が祀られています。
詳しくは
こちらの動画をご覧いただけたら
と思います。
ご祭神
御霊神社のご祭神は
天照大神荒魂(瀬織津比売神)
津布良彦神(つぶらひこ)
津布良媛神(つぶらひめ)
応神(おうじん)天皇
源正霊神(げんしょうれいじん)
となっています。
津布良彦神・津布良媛神は
摂津国津村(つむら)郷の
産土神だといいます。
応神天皇は
第15代天皇ですが
ここでは
八幡(はちまん)大神として
祀られているようです。
源正霊神とは
鎌倉権五郎景政公霊
(かまくらげんごろうかげまさ)
のことだそうです。
当初は
靭(うつぼ)公園のあたり
に鎮座しており
瀬織津比売神
津布良彦神・津布良媛神
を祀っていたのですが
遷座のさいに
この地で祀られていた
応神天皇と源正霊神を
合わせ祀ったようです。

圓神祠
御霊神社の旧鎮座地は
700メートルほど
南西にある
楠永(くすなが)神社
あたりだといいます。
靭(うつぼ)公園
のなかにある神社であり
御霊宮旧跡の碑
もあるようです。
平安時代にはここに
圓江(つぶらえ)
という入り江があり
圓神祠(つぶらしんし)
という祠に
祓戸の神である
瀬織津比売神と
産土神である
津布良彦神・津布良媛神が
祀られていたといいます。
「圓」とは
「円」の旧字体ですから
円形の入り江だったようです。
ツブラ彦とツブラ姫は
ツムラ郷の土地神とされる
のですが
「ツムラ」も
「ツブラ」が転じたとも
いわれるようですね。

「靭(うつぼ)」という地名は
「矢を入れる筒形の容器の名」
から来ているといいます。
けれども
ホツマツタヱからみればこれは
「うつぼ」ではなく
「うつほ」からきている
といえるのではないでしょうか?
ホツマツタヱが書かれている
ヲシテ(文字)でいえば
「ウツホ(空)」とは
アの母音の形にあたり
円形であらわされます。

草香江
縄文時代の大阪平野には
海が広がっており
河内湾(かわちわん)
といわれる
入り江となっていました。
住吉大社のあたりから
大阪城のあたりまでは
上町台地(かみまちだいち)
といわれる高台になっていて
河内湾の湾口部を
築いていたといいます。
詳しくはこちらのサイトを
ご覧いただけたらと思います。

ざっくりいえば
兵庫の西宮神社から
伊丹空港をへて
高槻を北限として
東は
生駒山の麓にせまり
八尾からは西に
平野までのびて
そこから
大阪城のあたりまで
上町台地が岬のように
伸びていたそうです。

弥生時代には
上町台地を築いていた
洲の部分がのびて
湾口部が狭まり
淡水化して
河内湖(かわちこ)
ができたといいます。
水没域も狭まり
北は守口から
東は生駒山
南は生野あたりまで
だったようです。

5世紀ごろ
(仁徳天皇の時代)になると
治水工事によって
さらに水が引き
いくつもの川と
いくつもの島が
できたといいます。
湖はさらに狭まって
草香江(くさかえ)
とよばれたようです。
おおよそ東成区と
東大阪市の北半分が
水底に沈んでいたようです。
このようにして
次第に水がひいてゆき
陸地化して
大阪平野が
生まれたといいます。
それでも
平安時代にはまだ
旧淀川(大川)の
河口あたりは
たくさんの小島が
ならんでいたといいます。
八十嶋祭
日本列島のことは
大八洲(おおやしま)
ともいうのですが
大八洲にみたてて
淀川河口の島々を
八十嶋(やそしま)
と呼んでいたそうです。

大小さまざまな島があります。

圓(つぶら)江の
圓(つぶら)神祠では
八十嶋祭(やそじまのまつり)
がおこなわれていたといいます。
これは
天皇の即位儀礼であり
日本統治の証をたて
その世が長く続くよう
祈願する祭りだそうです。
大嘗祭の翌年に
おこなわれたらしく
記録に残るものでは
嘉祥3年(西暦850年)
が最初だそうです。
新たに即位した天皇の
乳母が祭使となって
天皇の衣がはいった箱を
祭壇でひらくと
西の海に向かい
琴の音に合わせて
ヒラヒラと振り動かして
穢れを祓うといいます。
ホツマツタヱの稲虫祓い
「西の海さらり」
になぞらえているのでしょうか?
八十嶋祭には
神祇官(じんぎかん)
御巫(みかんなぎ)
生島巫(いくしまのみかんなぎ)
も参加したといいます。
生島巫がいることから
八十嶋祭の祭神は
生國魂神社でも祀られている
生島神(いくしまのかみ)
足島神(たるしまのかみ)
だったとも考えられるようです。
ホツマツタヱからすれば
オコロ兄弟の称え名である
イクシマ・タルシマのことで
坐摩神社とも関わりがあります。

鎌倉権五郎景正
圓江から
現在地へ遷座したのは
1594年だといいます。
因幡国の
鹿野(しかの)藩主であった
亀井茲矩(かめいこれのり)
が自邸の一部を寄進して
遷座したようです。
そのさいに
敷地内に祀られていた
乾八幡宮(いぬいはちまんぐう)
源正霊神(げんしょうれいじん)
が合祀されたといいます。
乾八幡宮の祭神が
応神天皇だったようです。
源正霊神とは
鎌倉景正(かまくらまさかげ)
のことで
通称を
権五郎(ごんごろう)
といったようです。
桓武平氏の流れくむ
平安時代後期の武将で
父の代より
鎌倉を領地としたことから
鎌倉氏を名乗ったといいます。
後三年の役では
源義家(みなもとのよしいえ)
[通称・八幡大神]の陣に
16歳で参戦すると
敵の矢で
右目を射貫かれながらも
奮闘し勝利したという
逸話が残っています。
歌舞伎の演目
「暫(しばらく)」の主人公
としても知られるかたであり
伝説的な武人として
尊崇を集めていたようです。

御霊信仰
天災や疫病の発生を
恨みをもってなくなった人の
怨霊によるものとみなし
祟りを鎮めるため
御霊として祀ることで
平穏を願うという信仰を
御霊(ごりょう)信仰
といいます。
平安時代には
御霊を鎮める儀式として
御霊会(ごりょうえ)
がおこなわるようになり
とくに最初に祀られた
崇道(すどう)天皇[早良(さわら)親王]
伊予(いよ)親王
藤原大夫人[藤原吉子(ふじわらのよしこ)]
橘逸勢(たちばなのはやなり)
文屋宮田麻呂(ふんやのみやたまろ)
藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)
がよく知られます。
ほかには
吉備真備(きびのまきび)
菅原道真(すがわらのみちざね)
などもあげられ
御霊として祀られたかたは
おおくいらっしゃるようです。
ただし、当社は
御霊神社というものの
御霊信仰ではないといいます。
鎌倉権五郎
を祀ることから
五郎之宮(ごろうのみや)
というようになり
これが転じて
「ごりょうのみや」
になったともいうようです。
また関東には
関東平氏五家の始祖である
鎌倉氏・梶原氏・村岡氏・長尾氏・大庭氏
の五氏を祀る宮があり
「五霊」が転じて
「御霊」になった
ともいうようです。
いずれにせよ
鎌倉権五郎を祀る神社は
御霊神社と呼ばれることが
おおいようです。
鎌倉権五郎は
怨みを持った霊ではないので
御霊ではないようですが
みずからの右目を射た人物の
子孫を祟ったというような話も
あることから
御霊とされたのかもしれません。

宝城寺
神仏習合の時代には
宝城寺(ほうじょうじ)
という
神宮寺(じんぐうじ)
[神社付属の仏教寺院]が
境内にあったようです。
比叡山延暦寺の
天台宗の寺院であり
観音堂の本尊である
十一面観音(じゅういちめんかんのん)は
大坂三十三ヶ所観音参りの
三十三番札所だったといいます。
江戸時代の戯作者である
近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)の
「曽根崎心中(そねざきしんじゅう)」にも
冒頭に宝城寺が
描かれているといいます。
そんな
曽根崎心中の舞台となった
お初天神は
御霊神社から北に
1.5キロほどにあります。
明治時代の
神仏分離政策により
宝城寺は廃されて
社領が狭くなったそうです。
ビルの前に立つ
こちらの鳥居は
旧社領の広さが
ここまであったという
名残だそうです。

また当時
御霊神社の境内では
落語や芝居や
人形浄瑠璃や影絵など
さまざまな見世物が
みられたといいます。
五福恵美須
境内社の東宮では
皇大神宮(こうたいじんぐう)
五福恵美須(ごふくえびす)神社
猿田彦(さるたひこ)神社
をはじめ
摂社十二社
(水神社・大雷社・龍神社・住吉社・
菅原社・加藤社・多賀社・春日社・
事平社・稲荷社・竈戸社・戸隠社)
を祀るといいます。

なかでも
五福恵美須神社とは
豊臣秀吉の時代に
伏見の呉服商人が
この地に集められたさい
黄金の恵美須神像が
下賜されたことに
はじまるそうです。
「呉服」が
「五福」へ転じた
といいます。
ただ、ホツマツタヱ的に
瀬織津姫つながりでいえば
西宮神社で祀られる
ワカヒメ(ヒルコ)を
思い描いてしまいます。

境内社
境内にはほかに
松之木(まつのき)神社
不動明王
大黒(だいこく)社
が祀られていました。

松之木神社では
松之木大神・朝吉大神
を祀るといいます。
西成区太子には
松乃木大明神があり
飛田新地で働く遊女の
三味線の皮にされた
猫の供養をしたといわれ
近松門左衛門の碑まで
あるそうですが
なにか関係があるのでしょうか?
お狐さんが
神使となっていますから
稲荷神社でもあるのでしょう。

お不動さんは
かつての神仏習合の名残
なのかもしれません。

大黒社は
大國主命(おおくにぬし)
を祀るといいます。
ですがこちらも
神仏習合の名残でしょうか?
磐座が祀られているのも
とても気になるところです。


このときは
陶板画・陶彩画家の
草場一壽(くさばかずひさ)さん
の個展を観に行ったさいに
立ち寄りました。
会場では
「瀬織津姫」のポストカードを
いただいたのですが
ここにも
深い深いご縁を感じております。

所在地
〒541-0047
大阪府大阪市中央区淡路町4丁目4−3
難波めぐり4
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