大江山
宮津市から
福知山市にまたがる
鍋塚(なべづか)
鳩ヶ峰(はとがみね)
千丈ヶ嶽(せんじょうがたけ)
赤石ヶ岳(あかいしがたけ)
などの山々をまとめて
大江山(おおえやま)連峰
と呼ぶようです。
大江山とは
連山のことであり
大江山という
山や峰はないのだそうです。
とはいえ、便宜的に
最高峰の千丈ヶ嶽を
大江山といったりもするようです。
ほかには
大枝山(おおえやま)
与謝の大山(おおやま)
老山(おいやま)
三上ヶ嶽(みうゑがたけ)
などともいわれたようです。
日室ヶ嶽
皇大(こうたい)神社から
奥宮の
天岩戸(あまのいわと)神社
までの参道には
日室ヶ嶽(ひむろがたけ)
の遥拝所があります。
皇大神社の
ご神体山であり
日本のピラミッド
ともいわれるようです。
遥拝所から眺める
東側の斜面は
禁足地だといいます。
また、夏至の日に
ここから眺めれば
太陽は頂上に
沈んでゆくのだそうです。
山頂には
磐座群もあるといいます。
別名を
岩戸山(いわとやま)
城山(しろやま)
ともいうようですが
ホツマツタヱからすれば
「日室」とは
「日」神の天照大神が
「室(墓)」とした地
といえるのかもしれません。
日室ヶ嶽も
大江山連峰のひとつであり
千丈ヶ嶽と日室ヶ嶽の
山頂を結ぶ直線は
伊勢の内宮の地へと
つづいているといいます。
鬼伝説
日室ヶ嶽をはじめ
大江山には
時代の異なる
3つの鬼伝説
があるといいます。
紀元前100年ごろの
彦坐(ひこいます)王
による土蜘蛛退治
西暦600年ごろの
麻呂子(まろこ)親王
による鬼退治
西暦1000年ごろの
源頼光(みなもとよりみつ)公
による鬼退治です。
どれも興味深いので
ひとつずつまとめてみます。
彦坐王
彦坐王(ひこいますのみこ)
といえば
第10代・
崇神(すじん)天皇の
弟であり
丹波道主(たにはみちぬし)の
父にあたります。
『丹後国風土記残缺』
によれば
彦坐王は
青葉山(あおばやま)に住む
土蜘蛛(つちぐも)退治に
遣わされたといいます。
土蜘蛛というと
妖怪や化け物のようにも
思えてしまいますが
大和朝廷に従わない
地方の反乱軍や逆賊の
呼称だったようです。
青葉山には
陸耳御笠(くがみみのみかさ)
匹女(ひきめ)
を首領とする
土蜘蛛の一族が
暮らしていたそうですが
彦坐王はかれらを
青葉山から追い出したといいます。
土蜘蛛は舞鶴の
鳴生(成生)
爾保崎(匂ヶ崎)
を経て
由良川(ゆらがわ)沿いの
志託(志高)
にいたり
そこから川をさかのぼって
大江山に逃れたようです。
大江町では
匹女が討たれたらしく
血がほとばしったことから
血原(千原)
の地名がついたといいます。
また
川に楯を立てて
応戦したことから
楯原(蓼原)
川守(河守)
の地名も残るようです。
首領の名は
「陸耳(くがみみ)」
というのですが
「ミ」や「ミミ」は
南方系の渡来人につけられる名
ともいわれるらしく
かれらには
大きな耳輪をつける風習があった
ともいわれるようです。
大江山に逃れたのちは
土蜘蛛たちの消息も
途絶えたらしく
うまく隠れ住んで
生き延びたのかもしれません。
麻呂子親王
麻呂子(まろこ)親王
といえば
第31代・
用明(ようめい)天皇の
御子であり
聖徳太子の
腹違いの弟です。
大江山に住むという
英胡(えいこ・奠胡)
軽足(かるあし・迦楼夜叉)
土熊(つちぐま・土車)
の3鬼の討伐に
遣わされたといいます。
麻呂子親王が
大江山まで向かう途中
亀岡盆地の篠町にて
なくなった馬を商人が
埋めようとしていましたので
「この征伐に利あらば馬蘇るべし」
と誓願したところ
馬はたちまち
生き返ったといいます。
そこでこの地を
馬堀(うまほり)
と呼んだそうです。
蘇った駿馬にまたがり
生野の里
を越えていると
今度は
老翁から白犬を
献上されたといいます。
頭に明鏡をつけた
犬であり
この犬を先導として
雲原村
に至ったそうです。
麻呂子親王は
薬師像を7体彫刻すると
鬼を討伐できた暁には
7つの寺を建立して
この仏像を安置すると
誓いを立てました。
そこでここを
仏谷
というようです。
そうして
鬼の岩窟
にたどり着くと
英胡と軽足を
討ち取ったそうです。
土熊には
逃げられてしまったのですが
白犬の明鏡で
照らしたところ
土熊が鏡にうつったので
これも討伐できたといいます。
土熊は後世の証にと
岩窟に封じられたそうです。
一説には
竹野郡まで落ちのびた
という話もあるようです。
鬼退治を終えた
麻呂子親王は
神徳に感謝して
皇大神社を営むと
かたわらに
宮殿を造営したといいます。
また明鏡は
大江山の麓に納められ
犬鏡大明神
といわれたそうです。
これは与謝野町にある
大虫神社の境内にあった
といわれるようです。
麻呂子親王は
誓願とおり丹後国に
・加悦荘施薬寺
・河守荘清園寺
・竹野郡元興寺
・竹野郡神宮寺
・構谷荘等楽寺
・宿野荘成願寺
・白久荘多裲寺
の7寺を建立して
薬師像をといいます。
一説によれば
英胡とは
新羅をはじめとする
海外からの異民族であり
軽足とは
反仏教的な存在であり
土熊とは
反朝廷的な存在である
とも解釈されるようです。
彦坐王の時代から
逃げのびていた土蜘蛛が
勢力をつけていたのとも
考えられるようですね。
源頼光
第66代・
一条(いちじょう)天皇の世には
京の都の若者や姫君が
次々と失踪するという
事件が起こったそうです。
そこで、陰陽師の
安倍晴明(あべのせいめい)
に占わせたところ
大江山に住む鬼の
酒呑童子(しゅてんどうじ)
の仕業だとわかったそうです。
討伐に遣わされたのは
源頼光(みなものとのよりみつ)
藤原保昌(ふじわらのやすまさ)
でした。
頼光といえば
「らいこう」ともいわれます。
また討伐には
頼光四天王といわれる
渡辺綱(わたなべのつな)
坂田公時(さかたのきんとき)
ト部季武(うらべのすえたけ)
碓井貞光(うすいのさだみつ)
も従っていたようです。
坂田公時といえば
童話「金太郎」の
モデルといわれるかたです。
頼光らは
遠征の道中で
神々から
神便鬼毒酒(じんべんきどくしゅ)
を与えられると
山伏に変装して
鬼の居城を訪ね
一晩の宿を
頼んだといいます。
鬼から振る舞われた
血の酒や肉を平らげて
信用させると
頼光らは
神便鬼毒酒をふるまって
毒によって
鬼たちを酔い潰したところで
鬼の首を
落としたといいます。
それでも、生首はなお
頼光の兜に噛みついたのですが
仲間の兜も重ねかぶって
難を逃れたそうです。
死の間際に
鬼神・酒呑童子は
こう語ったといいます。
「鬼神(きじん)に
横道(おうどう)なし」
頼光はこの言葉を
どう受け取ったのでしょう。
宴席のさい
酒吞童子はみずからの
生い立ちを語っていたといいます。
母の胎内に3年間籠って
ようやく生まれた酒呑童子は
幼名を
外道丸(げどうまる)
といったそうです。
産まれながらに
髪と歯が生えそろい
すぐに歩くことができて
5歳程度の言葉を
話すことができたといいます。
3歳にして酒を呑み
大変な乱暴者だったようです。
手を焼いた母親は
息子を稚児として
寺に預けたといいます。
外道丸は
類まれなる美貌であり
才気にも優れていたため
10歳にして
比叡山(ひえいざん)の
最澄(さいちょう)に
弟子入りすると
三塔一の学僧とまでに
称えられたそうです。
けれどもその美貌から
おおくの女性たちに
恋慕されてしまったといいます。
外道丸が
恋文を焼いていると
やがて女の怨念が
煙となって襲いかかり
外道丸を
鬼に変えたそうです。
また一説には
遷都の祝賀祭で
都の鬼門にあたる
比叡山の一門は
「鬼踊り」を
披露したですが
外道丸が
手製の鬼面で踊ると
大変な人気だったらしく
そのまま酒席に参加して
酔いつぶれてしまったところ
翌朝には
鬼の面が顔から
外れなくなっていたといいます。
こうして
鬼となった外道丸は
比叡山を追われて
各地を
転々とするうちに
大江山に
辿りついたそうです。
仏道を外れて
鬼へと堕ちたということ
なのかもしれませんが
「鬼神に横道なし」
という言葉をきけば
酒吞童子にも
流儀があった
のかもしれません。
古くはこれも
「邪(よこしま)なし」
と言っていたようです。
ホツマツタヱにおいて
「ヨコシマ(横縞)」といえば
人心を惑わした
反乱軍ハタレのこと
をいいます。
ハタレにもまた
彼らなりの言い分があった
とも考えられますから
ここにもまた
通じるものがある
のかもしれません。
討ち取られた
酒呑童子の首は
京都に持ち帰られて
平等院(びょうどういん)
の宝蔵に納められたといいます。
またもしくは
山城国との国境にある
老(おい)の坂峠の
首塚(くびづか)大明神
に祀られているとか
大江山の
鬼嶽稲荷(おたけいなり)神社
に祀られているとも
いわれるようです。
また
伊吹山(いぶきやま)
に残る説では
酒呑童子は
ヤマタノオロチの子孫
とも言われているようですから
ここでもまた
反乱軍ハタレに
通じていそうです。
鉱山
彦坐王の時代より
大江山には
土蜘蛛や鬼と
いわれるような
海外からの渡来人や
反朝廷的な存在が
暮らしていたようです。
また、大江山は
鉱山としても知られ
渡来の技術による
製鉄で栄えていた
とも考えられるようです。
鬼嶽稲荷神社や
鬼の洞窟にもほど近い
大江山の山中には
北原(きたはら)遺跡
があり
古代のたたら製鉄跡
といわれています。
ですから、この地で
隠れて暮らしていた
製鉄民が
朝廷側から恭順を迫られた
とみることもできそうです。
ジブリ映画の
「もののけ姫」のようですね。
ところで
「鬼」のイメージには
漂着した外国人説もあり
血のように
赤いワインを呑んで
赤ら顔になった
長身で
毛むくじゃらの彼らが
牛豚鶏の肉を
むさぼり食う姿が
鬼に見えた
という話もあるようです。
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