伊雑宮
皇大神宮(こうたいじんぐう)の
別宮(べつぐう)のひとつ
伊雑宮(いざわのみや)
です。
ただしくは
『伊雜宮』と書くようですが
こちらは旧字体ですので
一般的には
『伊雑宮』のようです。
天照大神の遙宮(とおのみや)
と称えられるようです。

伊勢神宮
伊勢神宮(いせじんぐう)は
三重県伊勢市にある神社で
神社本庁の
本宗(ほんそう)といわれ
「すべての神社の上に立つ神社」
「日本国民の総氏神」
とされています。
正式には
『神宮(じんぐう)』であり
伊勢はつかないようです。
皇祖・
天照大御神(あまてらすおおみかみ)
を祀る
内宮(ないくう)こと
皇大神宮(こうたいじんぐう)
豊受大御神(とようけのおおみかみ)
を祀る
外宮(げくう)こと
豊受大神宮(とようけだいじんぐう)
が知られていますが
『伊勢神宮』というのは
摂社末社などとあわせて
125社の総称だそうです。

別宮
内宮・外宮の2社は
正宮(しょうぐう)といい
もっとも尊いお宮のようです。
そんな正宮についで
重要とされるお宮を
別宮(べつぐう)といい
内宮には
別宮が10社
外宮には
別宮が4社あるようです。
伊雑宮は
内宮(皇大神宮)の
別宮にあたるようです。

志摩国一宮
別宮14社のうち
伊雑宮だけは
伊勢国(いせのくに)
ではなくて
志摩国(しまのくに)
にあるようです。
国とは、かつての
地方行政区分なのですが
神社をたどるさいには
とても重要になってきます。
伊雑宮は
志摩国一宮
とされるようです。
一宮(いちのみや)とは
その地域のなかで
もっとも社格の高い神社のこと
だそうです。
ただ、
志摩国の一宮はもうひとつ
伊射波(いざわ)神社
があるといいます。
こちらは、
三重県鳥羽市の
加布良古崎(かぶらこざき)
にあるようですね。
漢字は異なりますが
どちらも読みはおなじ
「いざわ」となっています。

天照大神
ご祭神は
天照坐皇大御神御魂
(あまてらしますすめおおみかみのみたま)
だといいます。
内宮でも祀られる
天照大神のことですね。
相殿には、伊雑宮神職の
磯部(いそべ)氏の祖先とされる
伊佐波登美命(いざわとみ)
玉柱屋姫命(たまはしらやひめ)
も祀られているといいます。
この地は、地名を
磯部(いそべ)といい
伊雑宮は
「磯部の宮」
「磯部の大神宮さん」
ともいわれるようです。
磯部氏の栄えた地
なのでしょう。

倭姫命
古事記・日本書紀によれば
伊勢神宮を創建したのは
倭姫命(やまとひめ)
だといわれています。
第11代・
垂仁(すいにん)天皇の娘
なのですが
叔母にあたる
豊鍬入姫命(とよすきいりひめ)
のあとをついで
皇祖・天照大神を祀る
聖地をもとめて
諸国を転々としたのち
内宮の地をみいだした
といいます。
そんな、
倭姫命について書かれた
『倭姫命世紀(やまとひめのみことせいき)』
にはこうあります。
彼稲生地千田止号支在嶋國伊雜方上其処伊佐波登美之神宮造奉皇太神為摂宮伊雜宮此也
『倭姫命世紀』
『 彼の稲の生ひし地は千田となづけ 嶋国の伊雑の方上にある。 その処に伊佐波登美の神宮を造り奉り 皇太神の摂宮と為した 伊雑宮がこれである 』
倭姫命は
神宮の神饌をもとめて
御贄地(みにえどころ)
をさがしたところ
伊佐波登美命(いざわとみ)
の治める地を選定して
宮を築いたらしく
これがいまの
伊雑宮だといいます。
神饌のなかでも
もっとも重要な
「稲」に関わる地であり
神田をもつ
ゆいいつの別宮
でもあるようです。

御田植式
豊作を祈願しておこなわれる
御田植祭(おたうえまつり)ですが
伊雑宮では
御田植式(おたうえしき)
といい
香取神宮(かとりじんぐう)
住吉大社(すみよしたいしゃ)
とあわせて
日本三大御田植祭のひとつ
とされるようです。
磯部の御神田(いそべのおみた)
ともいわれるらしく
国の重要無形民俗文化財に
指定されているといいます。


祭では、田のなかで
巨大なうちわのついた
忌竹をうばいあう
竹取神事もあるようです。
それはどこか、歌を詠いながら
田をあおいで虫を祓ったという
ワカヒメさまを思いおこします。
ホツマツタヱによれば
伊雑宮は
天照大神が住まわれていた
そうなのです。

イサワ
きみはみやこお
ホツマツタヱ 6アヤ
うつさんと おもひかねして
つくらしむ なりていさわに
みやうつし
『 天照大神は 富士山のふもとにあった ヤスクニ宮から遷都するために オモヒカネ(思兼神)に 新都の造営を任せました。 そうして イサワの宮が落成したので 都を遷しました。 』
ときにいさわの
ホツマツタヱ 28アヤ
あまつかみ そふのきさきも
かみとなり せおりつひめと
ををんかみ みやうつさんと
みもかわに あのほるちゑて
さこくしろ うぢのみやゐに
ふよほへる
『 玄孫にあたる ウガヤフキアワセズの 治政も豊かになったころ イサワの宮にいた 天照大神の12人の妃も みななくなってしまい 后・瀬織津姫と 天照大神はともに 宮(住居)を遷しましょうと ミモカワという地に 終の棲家(天にのぼる地) をさだめて サコクシロ(佐久久斯侶)の ウヂ(内・宇治)の 宮居として 2万穂がたちました。 [「穂」は、時を数える暦の単位] 』
天照大神は
みずから治世を執ったときから
なくなるすこし前まで
伊雑宮に暮らしていた
ようですね。
そうして、晩年を迎えると
いまの伊勢内宮の地にうつって
なくなったようです。
倭姫命は
天照大神が晩年を過ごした地を
内宮として御霊を祀り
天照大神が治世をとった地を
御贄地(みにえどころ)
としたようですね。

ただ、
「イザワ」の地は
伊雑宮のほかにも
いくつか比定地があるようです。
先代旧事本紀大成経
伊雑宮の書庫からは
聖徳太子(しょうとくたいし)
が編纂したといわれる
『先代旧事本紀大成経
(せんだいくじほんきたいせいきょう)』
〔神代皇代大成経
(かんみよすめみよのおほひなるつねのり)〕
が見つかったといいます。
そこには、
伊雑宮こそ
日神(天照大神)が鎮座する社
であり
内宮は星神(瓊瓊杵尊)
外宮は月神(月読尊)が
鎮座する社である
と書かれていたようです。
国学が栄えた江戸時代には
これがおおきな問題となって
伊雑宮と
内宮・外宮とのあいだで
紛糾したといいます。

巾着楠
伊雑宮の神域は
原生林らしく
一部は立入禁止とされ
厳密に管理されているようです。
とても神聖な雰囲気があり
太古の姿をいまに伝えている
ようでもあります。

お札や御朱印などをうける
宿営舎(しゅくえいや)の
すぐちかくには
巾着楠(きんちゃくくす)
といわれる見事な楠があります。

磐座(いわくら)を
根元に取りこんでいる
ともいうようですね。
とても迫力があります。
パワースポットとしても
知られているようですね。

七本鮫伝説
御田植式こと
磯部の御神田は
毎年6月24日に
行われるのですが
伝承によれば、そのとき
七匹の鮫が
的矢湾(まとやわん)
をのぼってきて
伊雑宮の大御田橋へ
あらわれるといいます。
当初は
7匹いたそうですが
村の子どもを
食べてしまったために
親の復讐にあってしまい
1匹減ったらしく
現在は
6匹なのだそうです。
この鮫は
七本鮫(しちほんざめ)
といわれて
伊雑宮の使いや
竜宮の使いとされるようです。
御田植式のさいには
蛙や蟹に化けて陸にあがり
伊雑宮に参るといいます。

巾着楠のカタツムリも
鮫の化身だったかもしれませんね😊
ですから、祭の日には
漁も禁止になるといいます。
的矢湾の海底には
岩でできた鳥居がある
ともいわれていて
ほかにも、
浦島太郎伝説や
龍宮伝説があるようです。
伊雑宮の神宝にも
玉手箱があったらしく
なかには
蚊帳(かや)が入っていた
と伝わるそうです。

的矢湾
伊雑宮は
的矢湾(まとやわん)
の最奥部にあります。
とくに、奥部のあたりは
伊雑ノ浦(いぞうのうら)
ともいうようです。
古代には
海が交通・運搬のルート
ですから
入り江というのは
天然の港として活用され
防衛的な観点からも
すぐれていたといいます。
立地からみても
日本の中心地とするに
ふさわしい地だった
のかもしれませんね。

所在地
伊雑宮
〒517-0208 三重県志摩市磯部町上之郷374
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